古代の森林破壊の象徴。東大寺、松茸文化、田上の禿。

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日本史上、最初の森林破壊は飛鳥・奈良時代にはじまったようだ。

法隆寺(607)から東大寺(758)までの間に、巨大寺院や大仏の建造が続いたことや、
平安京(794)までの度重なる遷都で(一説には木材資源を求めて森林近くに遷都?)、
近畿地方全域で森林破壊がかなり進んだと言われている。
(東大寺建立のために伐採されたスギやヒノキの大木は3万数千本とも)

また奈良時代から平安時代にかけてはじまった畳文化は、
木材が不足し板張りの床が作れなくなったことに由来するというから、
都の周辺はハゲ山だらけだったのかもしれない。

ただ温暖湿潤の気候や火山国であったことから、運良く再生できた山もあり、

「日本は火山国であり、各地の火山が噴火して、太古より、日本列島の上に火山灰を何度も降らせてきた。火山灰は、多量に集積すると黒ボク土のような問題土壌にもなるが、一般の土壌に適度に混入した火山灰は風化しやすい母材となって、多くのミネラルを供給して土壌を若返らせるはたらきをする。このようなことから、日本の褐色森林土は、樹木を育てるために必要な栄養分を豊富に含み、若くて生産力が高い土壌ということができるのである。」(農業環境技術研究所「司馬史観による日本の森林評価と土壌肥料学」)

ハゲ山のような痩せた土地でも育つ、アカマツ林が形成される。
京都近郊の森がアカマツ林へ変容し、そのアカマツに寄生したのが松茸
じつは日本の松茸文化は、古代の森林破壊に由来していたのだ。

以上のようなことは、以前書いてきたことのまとめだが、
自然回復を果たすことなく、飛鳥・奈良時代以降、荒廃したままで、
明治時代の治山工事でようやく緑を取り戻した山もあることを知った。

滋賀県南部に位置する田上山(たなかみやま)だ。

飛鳥時代の森林破壊の様子は、万葉集にも登場する。
第一巻「藤原宮の役民の作れる歌」で、

あらたへの 藤原が上に 食す国を 見し給はむと 都宮は 高知らさむと ・・・ いわばしる 淡海(近江)の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(角材)を もののふの 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ そを取ると ・・・ 泉の川(木津川)に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足らず 筏に作り のばすらむ

藤原京造営のために、田上山の檜を伐採し、河で運ぶ様子が詠われる。

田上山は森林伐採後、回復不能な風化花崗岩のハゲ山になってしまい、
江戸時代には「田上の禿」と呼ばれて、全国的に有名だったという。
そしして大雨のたびに地元や下流の人々へ災害をもたらす山だった。

明治時代になってようやく治山事業がはじまり、
緑が蘇った様子を林野庁ウェブサイトの写真で確認することができる。

この田上山の再生については、いくつか論文もあり、とても興味深い。

ちなみにこうした治山事業は終戦後や高度経済成長期に盛んになり、
いまや日本の森林面積のうち約4割が人工林となり、
森林を構成する樹木の幹の体積を表す「森林蓄積」も右肩上がり。

 
令和元年度 森林・林業白書P58

最近は局地的な豪雨による土砂・洪水災害が増えたように思えるが、
森に緑が戻ったことで19世紀以前に比べ、確実に減少しているという。
実はその一方で、川の河口まで土砂が到達しにくくなり海岸線は後退。
それが2007年に起きた西湘バイパス崩壊につながったという説もあるようだ。

ある一定目的のためだけに最適化すると、全体的なバランスが崩れる。
古代からそんなことを繰り返してばかりなのだなぁ。。。

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