先日はじめて徳川美術館を訪れた。
ここでは尾張徳川家に受け継がれてきた美術品が展示されている。
特別展が「殿さまとやきもの-尾張徳川家の名品-」で、
ここまで量の茶道具が一同に会した展示は初めて!
というほどたくさんの名品を見ることができた。
利休と織部は唐物重視の伝統を変えたかった?
ふと気になって出品リストを振り返ってみると、
名物として重宝されたのは、ほとんどが唐物の茶道具なんだなと。
室町時代最大の歌人と称される禅僧、正徹(1381~1459年)が、
「歌の数寄つきてあまたあり。茶の数寄という者は、茶の具足を綺麗にして、建さん・天目・茶釜・水差などの色々の茶の具足を、心の及ぶ程たしなみもちたる人は茶数寄なり。」(正徹物語201)
唐物の茶道具を満足ゆくまで取りそろえた者が茶数寄である、
と書き残しているが、
それ以降、唐物重視の傾向は変わることがなかったということか。
千利休が楽焼、古田織部が織部焼を指導したと言われるが、
これは国産の茶道具を立ち上げようとする動きだったのかもしれない。
しかし流れが変わらず、中国の釜で焼かれた茶道具が重宝され続けた。
江戸時代の中華意識が背景か?
江戸時代の国家意識のようなものが影響したのかもしれない。
漢民族国家「明」の滅亡後、中華(世界の中心)を受け継ぐのは日本だ!
と山鹿素行が「中朝事実」(1669年)で説いていたり、
近松門左衛門が描いた浄瑠璃「国姓爺合戦」(1715年)での日本の位置づけは、
- 日本が神道の国…儒教の中国、仏教の天竺、神道の日本という三国世界観。その外にある韃靼国を見下す。
- 日本は神が加護する神国…国姓爺が神風によって唐土へ。猛虎を伊勢神宮のお札で制す。
- 日本は他国を守る武国…日本が神国であり、武に優れた武国であることから明が復朝し、世に安泰をもたらすという結末。
当時の日本には「中華意識」が少なからずあり、
それゆえにかつての中華で生まれた茶道具を重宝していたのだろうか。
オマケでそんな国家意識を支える存在として位置づけられたのが琉球。
当時の文献には日本を崇める国として琉球が描かれており、
「唐へは遠く、日本へは近きゆえ、日本の助けにあらざれば、常住の日用をも弁ずる事あたはず。去によりて国人「大和」と称して、はなはだ日本を尊とむとなん。」(森島中良「琉球話」)
「この国、今は過半、日本の風儀にならひ、和歌を詠じ、能、囃子を興行し、長雄、瀧本などの和様の書を学び、よろずもっぱら日本を貴ぶなり。」(春光園花丸作・岡田玉山画「画本異国一覧」の「琉球国」)
それが江戸幕府はもちろん日本人の中華意識とは言わないまでも、
自尊心の支えに琉球が利用されていたことがよく分かる。
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