1月19日に味の素食文化センターで開催された
「江戸書物から読み解く庶民の食べ物と生活」。
磯田道史さんの講演「鰻の料理史」を中心にその内容を編集。
庶民が鰻のかばやきを食べるまで
万葉集に収録される奈良時代の歌人、大友家持(718~785)の和歌。
石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに
よしといふものぞ 鰻とり食せ
痩す痩すも 生けらばあらむを 将やはた
鰻を漁ると 河に流れな
夏バテで痩せている友に鰻を食べることを薦め、
無理に河に入って鰻を捕ろうとして流されないようにね、という二首。
「夏バテに鰻」はこの時代にすでに認識されていた。
万葉集には食にまつわる和歌が数多く収録され、食に関する知識は相当なもの。
その背景には人口の密集度が考えられる。
世界の人口が3億人だった時代に、日本の人口は550万人。
平城京には5~10万人が住み、食材が豊富な島国に人口が集中していたことで、
人々の間で食材の知識の共有が進んだのではないか。
奈良時代に鰻を食べていたといっても、その調理法は串刺しの丸焼き(宇治丸)。
本能寺の変の直前に、信長が家康を安土城に招いた時の献立にも鰻の宇治丸が。
では日本人が鰻を開いて食べるのはいつか?
磯田さんが「かばやき」の語源を調べたところ、
1594年、前田利家邸で秀吉に振る舞われた料理の献立に「かばやき」が現れる。
1728年に発行された近藤清春「江戸名所百人一首」。
ここに鰻のかばやきを食べる庶民の姿が描かれる。
ただし、まだ鰻をご飯と一緒に食べていない。
文化年間(1804~17)の「俗事百工起源」によると、
大の鰻好きだった大久保今助が、焼き立てのがはやきが冷めないよう、
丼の温かいご飯とご飯の間に鰻を入れて持ち歩いたのが「鰻丼」のはじまり。
つまり現代の「鰻中入れ丼」のご飯の上に鰻なし版。
料理の担い手が権力者から庶民のもとへ
鰻が庶民にまで広がる過程は、料理文化が広がる過程と重ね合わせることができる。
安土桃山時代までは権力者のもとに凄腕に料理人がいた。
たとえば「阿弥」号を称した足利将軍のアミーゴ集団「同朋衆」のなかにも
高度な料理を身につけたものがいたらしい。※幕末の料亭「京の六阿弥」の源流?
料理の担い手が権力者から庶民へ広がる過程で重要な役割を果たしたのが料理書。
江戸時代初期に出版された先駆けとなる料理書は次の2冊。
- 和歌食物本草(1630)…食物の効能などの知識を和歌の形式でまとめた
- 料理物語(1643)…一般向けのはじめての出版料理書
1780年以後、江戸の料理文化が花開き、材料別料理書「百珍物」が流行した。
- 豆腐百珍(1782)
- 万宝料理秘密箱(1785)
- 大根一式利用理秘密箱(1785)
- 鯛百珍料理秘密箱(1785)
- 甘藷百珍(1789)
- 名飯部類(1802)
- 蒟蒻百珍(1846)
1821年には人気料理店「八百善」の主人栗山善四郎が「江戸流行料理通」を出版。
葛飾北斎や谷文晁が挿画を描いて、江戸土産としても人気の一冊になった。
1750年までは料理屋といえば雷門の前の茶飯屋のみだったが、
「江戸町触集成」によると1811年には約7,600軒にまで増加していた。
また巨万の富を有する材木商が多い深川地区が贅沢料理を牽引した。
こうした背景には江戸幕府が商売に対する徴税の仕組みを持たなかったがあげられる。
コメを作ると4割を収めたが、商人に対してはせいぜい1.5%程度と考えられる。
都市住民が豊かになったから、食への関心が高まったのではないか。
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