べつに日本語の歴史を調べたわけじゃないから、勝手な感覚でしかないのだけど。
前に日本語の原型を作ったのは紀貫之では?と記事にしたけど、
平安時代の貴族は、男性は正式文字である真名、つまり漢文調の中国語、
女性は仮名(ひらがな)を書き言葉として使っていた。
「紫式部日記」にはこんな一節がある。
「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。」
清少納言は漢字書いて知識ひけらかしてやな感じー、みたいな意味。
紫式部ほどの才女がこんな日記を残しているとなると、
当時の女性には真名(漢字)を学ぶ習慣がなかったのかもしれない。
また、紀貫之が「土佐日記」で女性を偽った上で、仮名で書いたりするだけに、
男性には仮名を学ぶ習慣がなかったのかもしれない。
もしかすると、書き言葉では意思疎通が図れなかった?
そしたら、男女がお互いの気持ちを伝えるためのラブレターはどうするの?
こうした不便さから、まず和歌の世界が誕生し(和歌は恋の歌がメインだ)、
恋する男女が引き合うように、しだいに真名と仮名が寄り添っていって、
漢字とひらがなの日本語の原型ができあがっていく。。。
ストーリーとしては良いでき…(笑)、ご専門の方からのコメント、待ってまーす。
コメント
>当時の女性には真名(漢字)を学ぶ習慣がなかったのかもしれない。
当時の男性は意味がわかればいい、書ければいいといった程度に学んだだけだったようです。
平安時代には、漢文による学問は役に立たないと評価され漢文学者の地位は、かつては大臣だったところからただの文書係にまで落ちています。
公文書の作成は、そういった文書係となった漢文学者にまかされていたようです。
>清少納言は漢字書いて知識ひけらかしてやな感じー
これが当時の漢文学者への社会的評価です。
枕草子などにもそういった評価が書かれています。
日本人は日本語を記録するためのメディアとして漢字を輸入しました。しかし、そのメディアは日本語を表現するには不便だったので、新たにかなというメディアを作り、それを使用するようになりました。
漢字からは便利な単語や熟語だけを抜き出して使うようになりました。
かなが日本語を記録するのに非常に適していたため、源氏物語など多くの文学が作成されました。
その文学が日本人の心情や文化をリアルに伝えているため、長年にわたって読み継がれたのでしょう。
詳細にありがとうございます。
いただいたコメントを私なりに解釈すると、
当時の日本人が女性的な表現(こういうのを「たおやめぶり」とか言うのかな)をしたいと思ったとき、漢字だけじゃなんか堅苦しくてうまくいかないなぁ…、そんな想いから「かな」が出てきた。
こんな感じでしょうか。