先月のお気に入り記事は「過去のすべてが肯定される瞬間」。
木田元「偶然性と運命」で解説されていた、20世紀ドイツの哲学者、
マルティン・ハイデガーの時間論を、私なりに編集してみたものなんだ。
運命的な出会いをきっかけに、心の中で過去が整理・再評価され、
普段はバラバラの過去・現在・未来の時間がつながるような錯覚を起こす。
永続することはないが、この瞬間こそに人の「幸せ」が存在する、って話。
前回は肯定的な面のみを捉えたが、もちろん否定的な方に転ぶこともある。
たとえば、今回の震災での原発事故。
福島の原発事故は、まさに「過去のすべてが否定される瞬間」だった。
でも、もしも震災時に原発がビクともせず、いま正常に稼働していたら…
日本の技術力が世界から賞賛され、過去のすべてが肯定されていただろう。
つまり現在と過去の良し悪しは未来の出来事によってしか評価しえない。
人生に置き換えれば、ラ・ロシュフコーが「箴言集」に残したように、
「人は決して自分で思うほど幸福でも不幸でもない。」
とくに運命を感じる何かが起きない日々においては、幸・不幸は分からない。
この話を私が長年追いかけた、投資の話にも適用するのなら、
ポール・サミュエルソンの説いた、
「買手と売手が市場で合意した価格に勝る、もっと正確な本質的価値はおそらくない」
というわけで、現在の価格が割安か割高かは、未来からしか判断できない。
それじゃあ「今」をどう生きるべきか? それはさっぱり分からない。
過去や将来を考えず、ただこの瞬間の充実のみを目指すのか?
無心や無欲を貫き通し、ときおり訪れる幸・不幸に備えるのか?
今、この時を大切にする、ってどういうことなんだろう? むずかしいね。
コメント
難しいですね。
中島敦がそんな感じの小説(悟浄歎異)を書いています。
青空文庫で読めます。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card617.html
経済成長/働き手の増加と作業の効率化によるサービス総量の増大/高校補助教材、害虫のいない国に害虫を持ち込むと殺虫剤が売れるようになる→経済成長?幸せ?しかし日本人にとっては幸せでないともいえない。/中島敦 わが西遊記、渦巻きの中で喘ぐ者とそれを眺める者
と、これは私の最近書いたメモです。高校補助教材、というのは私が高校生だった15年ほど前の政経の補助教科書に、
GNPとGDPの違いという題でこんな話が載っていた記憶があって…。でも、これもGDPに入ってしまいそうなんですけどねえ、どうなんでしょう?。
しかしまあ、サミュエルソン、こんなこと言ってるんですか、ますます嫌いになってしまいますねえ。
よくも知らないくせに日本の政権交代を勝手に支持して、知識人どもが諸手をあげてた様を私は忘れません。政権交代というシステムができたことが素晴らしい、というスタンスで民主党という政党の中身を知ろうともしなかった、なんと言うか、姿勢が一貫していると言えばそうですが…。
まあ、グレアムの徒である私には到底受け入れられない人です。(ツールを発明した人、という点では立派な人だと思うのですが、それを使いこなすのは別の才能です。)
長文になりました。愚痴までこぼして失礼しました。
失礼しました、中島敦の小説は、悟浄出世の方でした。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000119/card2521.html
いけださんは以前、私と同世代、って書き込んでくれた方ですね。15年前、私も高校生でしたよ♪
ご紹介いただいた中島敦「悟浄出世」の青空文庫、読んでみました。
「何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の正真正銘神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。」
「「自己だと? 世界だと? 自己を外にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見じゃ。世界が消えても、正体の判らぬこの不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
このあたりが、なんかお説教された気分でした。ご紹介ありがとうございました。
それから投資の話をすると私自身、最近かなりの額を株式に投資していますが、何年か後に今を振り返って
・儲かっていれば、グレアムやバフェットが正しいと思い
・損していれば、サミュエルソンが正しいと思う
そんなところでしょうか。