枯山水は、あえて水をなくすことで、水を感じさせる逆転の模写が特徴。
それは禅の「無」じゃなくて「負」、すなわち「引き算の美学」なんだ。
というおもしろい視点が、松岡正剛「山水思想」P407~408にある。
まず、枯山水と水墨山水の系譜を次のように説明し、
- 日本の山水は縮小されている。「縮みの文化」。
- 山水は浄土を表す「彼岸の景色」。
- 道元「而今の山水は、古仏の道、現成なり」。「山水一如」の精神。
- 想像力としての山水に日本の実景があてはめられた。
- 禅林に芽ばえた水墨山水が、庭園化して「負の庭」としての枯山水。
- 枯山水を水墨画にもう一度もどして、日本の水墨山水が確立。
「一見、枯山水は、あたかも山水の実在を否定するかのような”無化”をおこしているかに見える。けれども、そうではなかったのだ。”無化”をおこしていそうなのだが、それとともに、その石ばかりの石組みに日本人は峨々たる遠山と滔々たる水流を見た。それを見る心の中には水しぶきがあがっていた。”無化”ではなかったのだ。」
とても難しい話だけど、ぼんやりと分かったような、分からないような。
日本は極東のたまり場としての立ち位置で、世界の文化を受け止めてきた。
それを日本独自の文化に編集する際に、背後で「想像の負」が介在?
仏教思想と自然災害の多さから、日本に生まれた無常の「無」が、
室町時代のあたりで、「無」から「負」に変わっているとしたらおもしろい。
あえて省くことで、限りあるこの世界に無限の美を演出する、ってことか…。
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