2004~2009年の奈良新聞で連載記事をまとめた一冊。
奈良にある19の神社仏閣の代表者が記者の問いに答えている。
印象的だった話をふたつ書き留めておこう。
「そもそも今の宗教というカテゴリーは、西洋人が作った尺度です。神道は日本人の生活とともにあり、心のよりどころです。『神頼み』というのも、努力した後のその先のお願いで、人知を超えたところへのお願いです。」(春日大社・花山院弘匡 宮司)
なんか目からウロコ。
日本の神道は西洋人の「宗教」って感覚と違う…。
そういえば「美術」もなんか違うんだよね。
西洋の美術は「鑑賞」で、日本の美術は「道具」。
生活の中の芸術と芸術の中の生活の境界線があいまい。
それが日本の美術の特徴だから。
「四季折々の豊かな恵みを得て、心豊かに気持ちよく充実して過ごせることが御魂のはたらきではないでしょうか。すべてに感謝の念を抱きながら、生かしていただいているということを自覚しなければと思います。そのためにも、ただ愚直に『人は見ていなくても神は見ている』という『心の正直』を肝にめんじて、日々過ごしていきたいですね。」(石上神宮・森正光 宮司)
ふと柿本人麻呂の和歌(万葉集3254)を思い出す。
敷島の 倭の国は 言霊の
助くる国ぞ 真幸ありこそ
「霊」(たま・魂)の力が「言」と「事」を包み込むことで、
人の共同体に幸せがもたらされる。それが日本という国。
まさに神道が生活である証の一首と言えるかもしれない。
私たちはカテゴリ化や数値化で分かりやすさを求めがちだけど、
境界線をハッキリさせようとするほど本質から離れてしまう。
分からないものを力づくの論理で制しようとはせず、
小さな幸運に感謝し、ただ手を合わせる。
時代を前へ進めることだけが進歩ではないと見えはじめた今、
こんな世界との向き合い方を取り戻すのもありかな。。。
コメント