新田義貞による稲村ヶ崎からの海岸線突破。
それが海と山に囲まれた鎌倉攻略のポイントだった。
この時の有名な逸話が「太平記」に残されている。
「仰ぎ願はくは、内海・外海の龍神八部、臣が忠義を鑑みて、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に開かしめ給へ」
と義貞が持っていた黄金の太刀を海中に投げ入れると、
「真に龍神納受やし給ひけん、其の夜の月の入り方に、前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄かに二十余町干上がつて、平沙渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く潮に誘はれて、遥かの澳に漂へり。」
引き潮によって海が干上がり、砂浜が現れて、
海に浮かぶ幕府軍の船も沖に流されたという。
ここから義貞は鎌倉中心部に攻め入り、幕府は滅亡する。
たまたま干満の差が大きい季節だったとも言えるが、
実は気候変動による影響が大きかったようだ。
源頼朝が鎌倉の地に幕府を開いたのは温暖化の時期。
世界的な温暖化による西日本の不作と東日本の豊作が、
源平合戦の勝敗を分けた可能性あり、と以前紹介した。
つまりこの時期は海面水位は上昇しており、
三方を山、南を海に囲まれた自然要塞は万全。
でも1250~1350年あたりの100年間は、
- 太陽活動が低下(ウォルフ極小期)
- 火山の噴火が多発し火山灰が地球を覆った
ことで地球が寒冷化。
海面水位が低下し、鎌倉のディフェンスライン崩壊。
これが新田義貞の稲村ヶ崎突破の背景にあったようだ。
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