禅の悟りへ至る道筋を描いた10枚の絵と出会った。
なるほど!と感じたので、かいつまんでまとめておこう。
主に牛と牧人が描かれているが、その意味するところは、
- 牛・・・本当の自分
- 牧人・・・本当の自分を追い求める自分
禅の目的は「本来の自己に出会うこと」であり、
その過程がうまく図解されていておもしろい。
絵にはそれぞれ詞書きがあるので以下に抜粋してみる。
尋牛
飼っていた牛がいなくなり、牧人は途方に暮れる。
従来失せず、何ぞ追尋を用いん。
背覚によって以って疎と成り、向塵にあって遂に失す。
本来失われるはずのないものだから、探す必要もない。
だが心の迷いによって疎遠になり、世間の塵に目が曇って見失った。
あるがままの自分が、本当の自分と感じられない。
世間の「あたりまえ」や「普通」に惑わされているから。
でもそれが分からないから、自分探しが必要なのだ。
見跡
牛の足跡を見つける。
正邪弁せずんば、真偽なんぞ分かたん。
未だこの門に入らざれば、権に見跡となす。
正邪真偽の区別はつかず、ただ牛の足跡をながめるばかり…
ここでの足跡とは、過去の経典や名僧の言葉を指す。
一般人の視点に直せば、足跡は古典と考えていいだろう。
本屋で平積みされている薄っぺらい自己啓発本より古典なのだ。
見牛
声より得入し、見処源に逢う。
音に誘われ、ふと顔をあげれば目の前に牛がいる。
ちなみに白隠禅師(1686~1769)は悟りを開いた瞬間は、
遠い寺の鐘が宇宙を揺るがすような音に聞こえた時だという。
得牛
ついに牛を捕まえる! でも暴れて大変!!
境の勝れたるによって以って追い難し、
芳草を恋いてしかもやまず。
ようやく牛を捕まえたが、荒れていて意のままにならず、
荒野の草を求めて逃げようとする。
悟りを得たもののまだ自分のものになっていない段階。
牧牛
牛を飼いならす。
覚りによるがゆえに真となり、
迷いにあるがゆえにしかも妄となる。
境によって有なるにあらず、ただ心より生ず。
悟りから生まれた考えであれば真理だが、
煩悩から生まれた考えであれば虚妄だ。
真理と虚妄との境界のせいではなく、心のせいなのだ。
どことなく夢窓国師(1275~1351)の
「山水には得失なし。得失は人の心にあり。」に似ている。
騎牛帰家
牛の背に乗り、家に帰る。
干戈すでにやんで、得失また空ず。
自己と自己との戦いは終わり、得失の問題はなくなった。
忘牛在人
家に帰った牧人は、すでに牛のことも忘れて月を眺めている。
牛もまた空じ、人もまた閑なり。
本当の自分を見出した今、牛の姿は消え、あるのは私の姿だけ。
人牛倶忘
牛が消え、人も消えた。
自分へのこだわりを捨て、本当に大切なものだけが残る。
「あきらめる」ということが「明らかに、見極める」ことであるように。
返本還源
描かれたのは自然のみ。
本来清浄にして、一塵を受けず。
有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。
幻化に同じからず、あに修治を仮らんや。
水緑に山青くして、坐に成敗を観る。
自分を離れて、ただ目に映る景色を楽しむ。
ここまでくれば、世間の常識とされる価値観にとらわれず、
自分自身の価値観で世界を見つめ直すことができるようになる。
入鄽垂手
悟りを得て布袋様のようになった牧人が、人を導こうとしている。
禅の道を進んでいるわけではないけど、
私はどのあたりまで来られたかな?なんて考えてみる。
人生全般はまだまだだけど、投資に限れば後半部かな。
たとえ「入鄽垂手」まで到達できたとしても、
ちょっとしたことで「尋牛」へ戻っちゃったりするんだよね。
だから人生はむずかしくもおもしろいのだ。
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