禅の悟りへ至る道「十牛図」

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禅の悟りへ至る道筋を描いた10枚の絵と出会った。

なるほど!と感じたので、かいつまんでまとめておこう。

主に牛と牧人が描かれているが、その意味するところは、

  • 牛・・・本当の自分
  • 牧人・・・本当の自分を追い求める自分

禅の目的は「本来の自己に出会うこと」であり、

その過程がうまく図解されていておもしろい。

絵にはそれぞれ詞書きがあるので以下に抜粋してみる。

尋牛

十牛図 (1)

飼っていた牛がいなくなり、牧人は途方に暮れる。

従来失せず、何ぞ追尋を用いん。

背覚によって以って疎と成り、向塵にあって遂に失す。

本来失われるはずのないものだから、探す必要もない。

だが心の迷いによって疎遠になり、世間の塵に目が曇って見失った。

あるがままの自分が、本当の自分と感じられない。

世間の「あたりまえ」や「普通」に惑わされているから。

でもそれが分からないから、自分探しが必要なのだ。

見跡

十牛図 (2)

牛の足跡を見つける。

正邪弁せずんば、真偽なんぞ分かたん。

未だこの門に入らざれば、権に見跡となす。

正邪真偽の区別はつかず、ただ牛の足跡をながめるばかり…

ここでの足跡とは、過去の経典や名僧の言葉を指す。

一般人の視点に直せば、足跡は古典と考えていいだろう。

本屋で平積みされている薄っぺらい自己啓発本より古典なのだ。

見牛

十牛図 (3)

声より得入し、見処源に逢う。

音に誘われ、ふと顔をあげれば目の前に牛がいる。

ちなみに白隠禅師(1686~1769)は悟りを開いた瞬間は、

遠い寺の鐘が宇宙を揺るがすような音に聞こえた時だという。

得牛

十牛図 (4)

ついに牛を捕まえる! でも暴れて大変!!

境の勝れたるによって以って追い難し、

芳草を恋いてしかもやまず。

ようやく牛を捕まえたが、荒れていて意のままにならず、

荒野の草を求めて逃げようとする。

悟りを得たもののまだ自分のものになっていない段階。

牧牛

十牛図 (5)

牛を飼いならす。

覚りによるがゆえに真となり、

迷いにあるがゆえにしかも妄となる。

境によって有なるにあらず、ただ心より生ず。

悟りから生まれた考えであれば真理だが、

煩悩から生まれた考えであれば虚妄だ。

真理と虚妄との境界のせいではなく、心のせいなのだ。

どことなく夢窓国師(1275~1351)の

「山水には得失なし。得失は人の心にあり。」に似ている。

騎牛帰家

十牛図 (6)

牛の背に乗り、家に帰る。

干戈すでにやんで、得失また空ず。

自己と自己との戦いは終わり、得失の問題はなくなった。

忘牛在人

十牛図 (7)

家に帰った牧人は、すでに牛のことも忘れて月を眺めている。

牛もまた空じ、人もまた閑なり。

本当の自分を見出した今、牛の姿は消え、あるのは私の姿だけ。

人牛倶忘

十牛図 (8)

牛が消え、人も消えた。

自分へのこだわりを捨て、本当に大切なものだけが残る。

「あきらめる」ということが「明らかに、見極める」ことであるように。

返本還源

十牛図 (9)

描かれたのは自然のみ。

本来清浄にして、一塵を受けず。

有相の栄枯を観じて、無為の凝寂に処す。

幻化に同じからず、あに修治を仮らんや。

水緑に山青くして、坐に成敗を観る。

自分を離れて、ただ目に映る景色を楽しむ。

ここまでくれば、世間の常識とされる価値観にとらわれず、

自分自身の価値観で世界を見つめ直すことができるようになる。

入鄽垂手

十牛図 (10)

悟りを得て布袋様のようになった牧人が、人を導こうとしている。


禅の道を進んでいるわけではないけど、

私はどのあたりまで来られたかな?なんて考えてみる。

人生全般はまだまだだけど、投資に限れば後半部かな。

たとえ「入鄽垂手」まで到達できたとしても、

ちょっとしたことで「尋牛」へ戻っちゃったりするんだよね。

だから人生はむずかしくもおもしろいのだ。

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