仏壇は日本独自のものらしい。
仏壇の中央に配置される「須弥壇(しゅみだん)」。
古代インドの宇宙観の中心「須弥山」を縮めたもので、
- 仏教世界の構造を表したもの
- 神仏が招かれ集まる場
といったイメージで、
仏壇は浄土への「どこでもドア」の役割を果たしている。
日本文化史の様々な局面で出会う、
「ちいさきものはみなうつくし」の美意識や「引き算の美学」。
仏壇もまた日本らしい方法によって生まれたようだ。
仏壇の来歴を紐解くと、まずは武家社会の到来がポイントとなる。
戦場に出かけることの多い武士にとって、
居所の近くの寺院が提供する浄土の入口では不十分。
ここで「浄土の入口のポータブル化」の考えが生まれてくる。
そこで「陣僧」が戦場に同行し、どこでも往生できる体制を整えた。
なかには軍師となるものも現れ、太原雪斎や安国寺恵瓊はこの系譜。
江戸時代に入ると寺請制度や本末制度が実施され、
各寺院が本山を頂点に整理され、その最末端が市民の仏間だった。
しかし木造家屋が建ち並ぶ江戸をたびたび襲う火災。
仏間が燃えてしまっては、極楽浄土への道が閉ざされてしまう。
ここで「仏間のポータブル化」が必要となり「仏壇」が生まれるんだ。
古くはうちわを扇子に発展させたところからウォークマンまで。
コンパクトに詰め込みポータブル化する日本の特技は仏壇にも!
参考文献など
・松岡正剛「日本数寄」
・中島隆信「お寺の経済学」
・仏壇の知識(Webサイト:いい仏壇)
コメント
お財布に入れる小さな仏様や縁起物、
神様の加護をどこでも感じられるよう懐にお守り、
その他諸々、小さくして身近におくのは日本人のお家芸ですね。
あと、戦国時代にはコンパクトではないですが、兜の前立てに
信仰する神仏の像や象徴をと掲げ、神の御加護の元に! や
死して浄土へ行く覚悟は出来ている! などそれぞれの思いを
身に付け誇示し戦ってましたね。
勇将の本多忠勝公は、自らが屠った敵を供養するためと言われる
大数珠を甲冑に掛けていたりもしますし、戦場は神仏に最も
近い場所だったのかもしれません。神のご加護をいただけるのか
仏の御手に救われるのかで結果は大きく違ってしまいますが…
鈴木大拙って戦前の禅の研究者が何かの本に書いていたのですが、中国と日本で禅を好んだ層が違っていて、中国では儒者や文人、日本では武人が中心だったそうです。中国の武人は宗教に疎かった、との指摘もされているので、赤大将さんが書かれている敗れた敵将に対する配慮、というのも日本独特なものかもしれません。