枯山水から「禅」と遭遇し、道元の「正法眼蔵」と格闘中。とにかく長い。
人はどうすれば生死の悩みから離れることができるのか?
そんなことを論じた「生死」の巻が目にとまったので軽く紹介。
道元は生死の悩みから離れるためには、
「生死すなわち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。・・・生より死にうつるとこころうるは、これあやまりなり。・・・生といふときには、 生よりほかにものなく滅といふときは、滅のほかにものなし。」
生死は仏の境地(涅槃)と心得、生から死へ移るという考えを捨て、
生の時は生の事実だけ(生即不生)、死の時は死の事実だけ(滅即不滅)
であることと向き合いなさい、と説いた上で、
「いとうことなく、したふことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。ただし心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。」
生死について、嫌うことも、願うこともしてはならず、
心の中でいろいろ考えたり、言葉で表現しようとしてもいけない、と説いた。
生きているときにはあれこれ考えず、無心で駆け抜けろ!ということかな。
余計なものを斬り捨てることで、本当に大切なものが浮かび上がる。
おそらく禅の本質は「無」から「無限」への広がりで、
これが「枯山水」や「茶道」の真髄へとつながっていくのだろう。
坐禅に活かす「正法眼蔵」現代訳抄 (2010/07) 窪田慈雲 商品詳細を見る |
コメント