科学的な合理性でリスクは測れない/ベック「危険社会」

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リスクの社会学といえばウルリヒ・ベック「危険社会」が出発点。

チェルノブイリ原発事故の直後に刊行されたから目立ってるんだね。
フクシマ後の日本へのヒントがないかな?と思って読んでいる。

二十世紀末近くになって、自然は征服され、誤った利用がなされた。そして、それに伴い、人間の外側の現象であった自然が内側の現象へと変化し、昔から存在していた自然現象が造られた現象へと変化したのである。・・・その結果、自然は産業システムの内部に組み込まれた。・・・産業システムの内部に組み込まれた第二の自然がもたらす脅威に対しては、われわれはほとんど無防備である。」P4~5

外的に存在する自然のリスクにはある程度対応することができた。
でも産業システムに内在する自然のリスクに対しては無防備だ。
科学的な合理性を持ちだして、客観的にリスクを仕分けしようとしても…

リスクに当たるかどうかという定義において合理性という概念が用いられるが、それを科学が独占していた状況は崩壊したのである。・・・科学の有する合理性にあってはリスクの内容を客観的に把握しようとする。しかし、その合理性は、自ずと弱まって、結局消えてなくなる。一つの理由としては、この種の科学的合理性が推測と仮定という砂上の楼閣の上に築かれているからである。・・・もうひとつの理由は、科学者が様々なリスクについて有意義に話を進めようとするならば、彼の価値観を引き合いに出す必要があるから。」P39~40

科学的な合理性だけが先走れば、社会的な合理性とかみ合わない。

たとえば現在、原発直下の活断層の調査が各地で進んでいるけど、
何万年前以降に動いたものを活断層とするかは、科学者の価値観次第。

でも経済的な合理性で対抗する電力会社は「悪」のレッテルを貼られ、
科学者が「大岡越前」的な雰囲気になってるから、訳が分からない。

社会的な合理性によって裏付けられていない科学的な合理性は無意味であり、科学的な合理性のない社会的な合理性は盲目なのである。」P41

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