夜明け前の茶道(茶禅・闘茶・唐物数寄)

中国史では陸羽(733-804)が「茶経」を描いて喫茶を広めた。
でも日本人がいつから茶を飲んでいたのかはっきりしない。
行基(668-749)が土木事業の過程で茶の木を植えた、
って記述もあるけど(東大寺要録)、飲むための栽培かどうか不明。

そんなわけで日本への喫茶伝来は、鎌倉時代の禅僧・栄西が、
中国・宋の喫茶の習慣を日本へ持ち帰った時とされている。
禅を土台にはじまった喫茶の習慣は静かなものだった。

でも喫茶が広く普及し、鎌倉末期、南北朝時代になると、
婆左羅(バサラ)趣味による乱遊飲食の会へ喫茶が持ち込まれる。
本茶(京都栂尾・高山寺産)か非茶の区別を争う茶勝負
闘茶」に多額の賭け金が積まれるようになり、

一 群飲佚遊を制せらるべき事
 格条のごとくば、厳制ことに重し。あまつさへ好女の色に耽り、博奕の業に及ぶ。このほかまた、或は茶寄合と号し、或は連歌会と称して、莫太の賭に及ぶ。その費勝計し難きものか。

足利尊氏が制定した建武式目(1336)で禁止されている。
また同時期、夢窓国師の提案ではじまった天龍寺船貿易により、
唐物の茶道具が大量に日本へ輸入される。

歌の数寄つきてあまたあり。茶の数寄という者は、茶の具足を綺麗にして、建さん・天目・茶釜・水差などの色々の茶の具足を、心の及ぶ程たしなみもちたる人は茶数寄なり。正徹物語201

唐物の茶道具を満足ゆくまで取りそろえた者が茶数寄。
文化人の関心は喫茶ではなく道具に向かっていた。
そんな茶を取り巻く状況に夢窓国師がこう嘆く

今時世間に、けしからず茶をもてなさるるやうを見れば、養生の分にもなるべからず。夢中問答57

禅からはじまった心と体を整える喫茶はどこへいってしまったのか!
同世代の兼好法師も唐物趣味を批判している。

唐の物、薬の外は、無くとも事欠くまじ。・・・「遠き物を、宝とせず」とも、また、「得難き貨を、尊まず」とも文にも侍る、とかや。」徒然草120段

唐物は薬以外は無用のもの。海外ブランドに惑わされるな!
と今の日本人にも耳が痛いことばをのこしている。

このように派手になりすぎた「唐物の数寄」からの揺りもどしとして、
後に「風雅の数寄」の茶道が登場し、「わび・さび」を目指す。
前回紹介した「かわるがわるの日本」はここにもある。
だからバブル崩壊後の今も、未来から振り返ればきっと。。。

主な参考文献
宮崎正勝「知っておきたい食の日本史」
村井康彦「日本の文化」 ←岩波ジュニア新書で読みやすい!
松岡正剛「日本数寄」