最近立て続けに2,3度引用されているのを見かけた、
ケインズの「孫たちの経済的可能性」を読んでみたくなった。
検索してみたところ、翻訳家山形浩生さんの訳されたものが、
無料でダウンロードすることができた。
ケインズが100年後を予想して1930年に書いた小論で、
- 先進国の生活水準は4~8倍に。
- 生活上必要な労働は週15時間、1日3時間に。
まもなくその百年後の2030年がやってくる訳だが、
生活水準をGDPに置き換えれば、ケインズの予測はピッタリその通り。
でも労働時間はどうして?という文脈での引用を見かける。
そこから資本主義の批判へつなげるのがある種のパターンのようだが、
そもそもケインズは何を読み違えたのか? そこに私は興味がある。
ポイントはケインズが人間のニーズを次の二種類に分けたこと。
- 絶対的なニーズ…他者の状況に関わりなく、自らが感じるもの
- 相対的なニーズ…他者より優れているという優越感の欲望を満たすニーズ
百年以内に経済問題は解消され、絶対的なニーズは満たされるのだから、
「目先の経済的懸念からの自由をどう使うか、科学と複利計算が勝ち取ってくれた余暇を、賢明にまっとうで立派に生きるためにどう埋めるか。」
という問題に直面する。
経済的にもう十分でも、一部の人はそれでもなお、金儲けに走るかもしれないが、
「過剰の到来でそれを享受できるのは、人生のそのものの秘訣を生かし続けてそれをさらなる完成へと育める人々であり、自分自身の生活手段のために売り渡さない人々なのだ。」
また富の蓄積が社会的重要性を持たなくなることで、
伝統的な美徳が蘇るとケインズは考えていたようだ。
「私たちは再び手段より目的を重視するようになり、便利なものより善良なものを好むようになる。今の時間、今日という日を美徳を持って立派に活用する方法を教えてくれる人々を尊ぶようになる。物事の直接の楽しみを見いだせる素晴らしい人々、働きもつむぎもしない、野の百合のような人々が尊敬されるのだ。」
なるほどケインズは私たち人間の欲望を読み違えたのか。
ケインズが「絶対的なニーズ」より一段下に見た「相対的なニーズ」、
他者と比較して優越感にひたる欲望こそが「絶対的」なものだった。
地位を顕示するような消費をしたがる人間の欲望に天井はなかったのだ。
あとは未来予測でありがちな失敗として、伝統的な美徳に帰っていく、
という主張が混ざると、予測ではなく単なる願望になる傾向があるような。
でも私はこういう考え方は嫌いじゃないし、現にそれを目指しているつもり。
とはいえこれを読むとケインズは、2030年には資本主義が役割を終えて、
新たな経済システムへ移行していると考えていたようで興味深い。
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