美術館に「洛中洛外図屏風」が飾られると、
当時の風俗が読み解けるとの観点から、
この部分にこんな人々が描かれているよ、と案内が付けられていて、
それはどこだ?とキョロキョロしながら鑑賞するのが定番。
しかしこんな見方があったのか!と気付かせてくれたのが、
花田清輝(1909~1979)の随筆「金いろの雲」。
私たちが街の景観に吸い寄せられるのは、
おびただしい金色の雲の群れによる効果であり、
それは山水画の余白の美と通ずるものがあるのではと。
その対比の記述になるほどー。
「山水画のなかの描かれないまま、残されている空白の部分は、かえって、その風景によって、変れば変るほど変らないもののすがたを、永遠なるもの、無限なるものを暗示する。しかるに、その余白の部分を、あますところなくビッシリと埋めつくした『洛中洛外図』における金いろの雲は、一見、下界のさまざまな風俗の展望をさまたげているようにみえながら、逆にそれらのものにむかって、われわれの視線をひきつけるのである。」
「山水画は、遠心的に、そこからわれわれを永遠なるものや無限なるものを目ざして飛翔させ、風俗画は、金いろの雲のおかげで、求心的に、そこにむかって、絶えずうごいてやまないもののすがたを求めて、われわれを降下させるともいえよう。一方は、現世を離脱して、山高く、水清らかなるあたりで、悠々自適したいという願望のあらわれであり、他方は、現世に執着して、市井雑踏の巷に埋没し、群衆の生態にたいして飽くなき好奇心をいだいていることのあらわれである。」
今後の安土桃山時代の作品を鑑賞する際は、
金色の雲に着目してみたい。
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