正倉院宝物研究の最前線(猪熊兼樹・三田覚之)

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17日開催の東京国立博物館での講演会メモ。

「最前線」というだけあって、
私が学生の頃(二十数年前)に学んだのと変わったなと感じたのは、

  • 遣隋使で煬帝を怒ったのは「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に…」という下りではなく、天子は中華にいる私ひとりのはずだろう!という点だった。
  • 正倉院の宝物はシルクロード由来のものばかりではなく、それを真似て国内生産されたものが多い。
  • 正倉院の宝物が守られたのは、校倉造りの風通しの良さ(校倉通風説)ではなく、杉材製の宝物容器(櫃)のおかげだった。

遣隋使の話は経済的に日本が中国に勝っていた約150年の間に、
「日出ずる処」を強調したいという時代背景が歪めていたのかな。
すべての歴史は現代史と絡んで解釈され直し続けられるものなのだなぁ。

そのほか展示物を見た後で聞いたから「へぇー」と思ったのは、

  • 聖武天皇31歳の書「雑集」の末尾に記された「諦思忍 慎口言 止内悪 息外縁」から、当時、聖徳太子が慧思禅師の生まれ変わりと認識されていたことが分かる。
  • 「螺鈿紫檀五絃琵琶」再現しようとすると、螺鈿の部分が彫り込みゆえに、わずかにズレても音がうまく鳴らず、用途が楽器だったのか疑問。天上世界の音楽を地上へもたらすイメージとしての美術品?
  • 五絃琵琶を描いた最古の図が、奈良・長谷寺の「銅板法華説相図」(686年)に発見された。
  • 正倉院宝物の塵芥の中に「天寿国繍帳」の残片が混ざっていた。

講演では法隆寺の宝物との対比の話も多かったが、
東京国立博物館に法隆寺の宝物が展示されているのはなぜか?

それは明治初期の廃仏毀釈から宝物を守るために、
法隆寺が皇室に寄贈したから奈良ではなく、東京にある。

聖徳太子と聖武天皇、「聖」と称された2人への深い尊敬の念があったから、
法隆寺と正倉院の宝物が現在まで大切に受け継がれてきたのだろう。
という締めになるほどと思った。

でも最近は聖徳太子はいなかった?みたいに言われてるよね。。。

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