平和をカネで買おうとした宋王朝の末路。日本のODAに似ている。

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なぜか最近、日宋貿易についてのメモ書きを読みに来る方が多い。

それに気がつきふと思えば、中国王朝「宋」の外交政策には、
戦後の日本と少し似ているところがあるかもしれない。

前王朝の唐が軍人のクーデターがきっかけに崩壊したことから、
宋(北宋)は科挙官僚が軍を統制する方法をとった。

世界史の教科書では「文治主義」という名前がつけられているが、
今で言うところの「文民統制(シビリアンコントロール)」。

そして国境を接する遊牧民国家へ莫大な経済支援を約束することで、

  • 北方の契丹族の「遼」とは 澶淵の盟(1004年)
  • 西方のタングート族の「西夏」とは慶暦の和約(1044年)

従来の王朝のように武力を行使せず、平和共存の姿勢で外交交渉に臨んだ。

しかし平和を維持する手段として経済支援が効果的なのは、

  • 自国の経済が成長を続けること
  • 周辺国よりも経済的に豊かであり続けること

経済支援によって次第に豊かになった周辺国の要求が大きくなり、
結局は平和はカネでは買えないことが露呈しはじめる。

北宋は財政難から遼の経済支援の要求に耐えきれずに、
新興遊牧民、女真族の「金」と結んで「遼」を攻め滅ぼしてしまうが、
今度は「金」に経済支援の要求されるという負のスパイラルに…。

20世紀後半に東アジアでいち早く経済成長を遂げた日本が、
戦前のお詫びの意味も込めて多額のODA(政府開発援助)を、
中国や韓国にしてきたけれども…、という話になんとなく重なる。

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