今朝は七日なので妻が七草粥を用意してくれた。
ふと疑問に思う、以前「春の七草」について和歌をたどると、
「若菜摘み」の習慣が庶民へ広がっていく様子が分かった。
ただし若菜を摘むだけで、お粥にして食べた描写はない。
妙だなと思い、土佐日記と枕草子を読んでみると、
やはり七草粥の記述はなく、十五日に小豆粥を食べる習慣が見てとれる。
「七日になりぬ。…若菜ぞ今日をば知らせたる。」(土佐日記)
「七日は、雪間の若菜、青やかに摘み出でつつ、例は、さしも、さる物、目近からぬところに、持て騒ぎ…」(枕草子)
「七日の若菜を、人の、六日に、持て騒ぎ、取り散らしなどするに…」(枕草子)
旅の途中に和歌とともに若菜をもらって一月七日であることを知る紀貫之。
普段は目もくれない若菜に大騒ぎする人々をクールに見つめる清少納言。
「十五日。今日、小豆粥煮ず。口惜しく…」(土佐日記)
「十五日は餅粥の節供参り…」(枕草子)
一月十五日なのに小豆粥を食べられなかったことを悔しがる紀貫之。
この記述により十五日の小豆粥が習慣化していることが分かる。
また枕草子が餅粥という表現になっているのは、
十五日は望月の日だから、望粥(もちがゆ)が転じて餅粥に。
もう少し時代を下ると年初の粥の習慣が合体して、
七草粥も生まれてくるのだろうか? 何か見つけたら追記。
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