フレーズ・パスカルは「パンセ」の中で読者へこう問いかける。
「この世に神がいるか、いないか。あなたはどちらに賭けるか?」
通称「パスカルの賭け」と呼ばれる意志決定論の起源とも言える。
以前にもこの断章を用いて投資の本質に迫ろうとしたことがあるが、
今一度読み直したところ、こんな読み方もできるかなと気がついたこと。
正しいのは賭けないことだが…
「神はあるか、またはないか。われわれはどちらに傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てで賭けが行われ、表が出るか裏が出るのだ。」
「表を選ぶ者も、裏を選ぶ者も、誤りの程度は同じだとしても、両者とも誤っていることに変わりはない。正しいのは賭けないことなのだ。」
認識不可能な神という存在に賭けるなんて行為は愚かなこと。
資産形成の手段として投資をするかしないか、という話に少し似ている。
確実に利益の出る投資手法など存在しないのだから、
なにもしなければ、とりあえず損はしないということは確かだ。
しかしパスカルはこのすぐ後にこう問いただす。
「だが賭けなければならないのだ。それは任意的なものではない。君はもう船に乗り込んでしまっているのだ。」
キリスト教世界に生きる以上、強制的に賭けに参加させられており、
この現実から目を背けることはできないはずであると。
今の社会に生きる以上、投資を敬遠するわけには…
ここまでのパスカルの論調は、今の社会構造のなかで、
投資から目を背けることに置き換えられるように感じる。
以下はロバート・ライシュ「暴走する資本主義」で言及された内容を、
私なりにごく簡単に図解したものだ。
自ら意志をもって投資をしているかどうかに関わらず、
給与天引きされた社会保険料を原資とした国の年金運用を通じて、
すでに誰もが投資家であることを忘れてはいけない。
- 投資家…企業に対し利益をあげ、株価を上昇させることを求める
- 労働者…企業に対しもっと給料を上げることを求める
- 消費者…企業に対し良いものを安く提供することを求める
だが企業はこの三者からの要求に同時に答えられることはできるだろうか?
日本人は世界一、品質にうるさい消費者とも言われており、
世界的に進む高齢化を背景に年金運用の投資家の要求は厳しい。
さらに最近では国をあげて企業のROE向上をうながす雰囲気もあり、
労働者への還元が一番後回しにされていると言えるだろう。
事実、世界的な好景気の中で国内の実質賃金に上昇の兆しは見られない。
ゆえに給与のみを資産形成の拠り所としているかぎり、
搾取される側から抜け出すことができないのではないだろうか?
不確実なものに賭けることで得られるもの
だからといって確実に儲かるものでもないのに…、
といった反論に対しては、もう一度パスカルに登場してもらおう。
「もうけられるかどうか不確実なのに、賭けの危険を犯すことは確実であると言ったところで、なんにもならない。」
「人が身をさらすことのこの確実さと、もうけの不確実さとのあいだに、無限の距離があるわけではないのである。それは誤りである。ほんとうの話は、もうけの確実さというものと、損をする確実さというものとのあいだにこそ無限があるのである。」
値上がり益が得られるか分からないのに、資産変動のリスクを追うのは割に合わない、
といった理由で投資を敬遠するのは、比較対象が間違っている。
「神がいる方に賭けることによって、君にどういう悪いことが起こるというのだろう。僕は忠実で、正直で、検挙で、感謝を知り、親切で、友情にあつく、まじめで、誠実な人間になるだろう。」
投資と信仰は違うので、ここまで人間性が磨かれることはない。
ただ投資を通じて世の中の見方が身につくことは確実だ。
とくに私は就職氷河期に遭遇し、学びの場としての会社が存在しなかった。
今となってはそれが幸運の始まりだったと振り返ることができるのも、
投資と出会えたおかげだし、これがなければ転落人生へ突入していた。
私にとって知的好奇心の広がりの原点が投資であり、
株式投資と向き合うことで世界観を育み、古典でそれを確かめる。
というのが社会に出てからの私の生き方だったのだ。
コメント