平安時代の浄土思想ブーム。往生要集と末法思想が火をつけた。

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浄土式庭園の代表例とされる平等院と浄瑠璃寺を訪ねる前の予習に、
平安時代の浄土思想について頭の整理をしている。

浄土ブームの火付け役は源信

天台宗出身の恵心僧都源信が「往生要集」を著し(985年)、
厭離穢土欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」を主張。
此岸の穢土を離れて彼岸の浄土を求めるという思想で、
浄土にいたるための念仏の方法論を示したマニュアルとして普及。

さらに慶滋保胤が「往生要集」に示された思想を実践する
念仏結社「二十五三昧会」を結成し(986年)、教化に努めたことで、
貴族たちの間に浄土信仰や阿弥陀信仰が広がっていった。

同時代に書かれた「紫式部日記」(1008~1010年頃)からも、
浄土信仰が貴族の心を捉えていたことがうかがい知れる。

「人、と言ふとも、かく言ふとも、ただ阿弥陀仏にたゆみなく、経をならひはべらむ。・・・ただひたみちに背きても、雲に乗らぬほどのたゆたふべきやうなむはべるべかなる。それに、やすらひはべるなり。」

(人からとやかく言われても、ひたすら阿弥陀仏を信じてお経を習おうと考えています。・・・でも現世に背を向け出家をしても、阿弥陀の来迎までは気持ちがぐらついてしまいそうです。それゆえにためらっているのです。)

また死期を悟った藤原道長(966~1028年)は、
九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを五色の紐で結んで、
浄土を願いながら往生したといわれている。

終末論的な末法思想も背景に

浄土思想は源信の著作だけで広まった訳ではない。
末法」がやってくるという終末論的な恐怖が後押しをしていた。

釈迦が死んで千年で「正法」が、さらに千年で「像法」の世が過ぎ、
時とともに仏の人々を救う力が失われてゆき、最後に「末法」が来る、
という予言的な年代観が仏教にはあった。

とくに仏教の仏教の世界観では、日本という地の位置づけは、
釈迦の生まれた天竺から離れたの粟粒のごとき辺境の小島(粟散辺土)とされ、
末法の影響が最も大きくなると人々の間で恐れられていたようだ。

そして1052年がその末法に入る第一年目だという噂でもちきりだったという。
ちなみに1052年はまさに平等院鳳凰堂が造営された年だ。

西方極楽浄土が人気

仏教では、本来は東西南北いずれにも浄土が想定されていたが、

  • 北…弥勒菩薩
  • 南…釈迦如来
  • 西…阿弥陀如来
  • 東…薬師如来

当時は浄土といえば西方の「極楽浄土」とされ、阿弥陀信仰も強調されていた。

浄瑠璃寺はずらりと九体も阿弥陀如来像を並べていることで有名だが、
極楽浄土と阿弥陀信仰の人気ぶりを示しているのだろうか。

だが浄瑠璃寺の名は、東方の「瑠璃光浄土」に由来するものであり、
創建当初の本尊は薬師如来だったようだ。

天台本覚思想の日本らしさ

浄土思想が広まりつつある頃に「天台本覚思想」という考え方もあった。
草木国土悉皆成仏」や「山川草木悉皆成仏」というフレーズが知られており、
草木も山川も国土のそこかしこに仏が宿り、浄土への道が開かれているというもの。

現世の穢土とあの世の浄土を線引した源信とは違い、
浄土を間近に引き寄せる感覚が、浄土式庭園の造園意図に近いのではないか。

また本人がそこに浄土があると思った場所に浄土が現れるという感覚は、
仏教伝来以前から日本人が持っていた、神に対する感覚に近くて興味深い。

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