牧場経営から投資家の振舞いを考える

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牧場って自然との共生を常に頭に入れて経営しなきゃいけないんだって。
短期間で利益をあげようとして、過度に放牧を行えば、
牧草地はあっと言う間に食い荒らされ、不毛の土地となってしまう。
土地の面倒をきちんとみないと、同じ場所で長期間、牧場経営はできない。
※参考文献「文明崩壊-滅亡と存続の命運を分けるもの (上)

さてここで話を金融市場と投資家に置き換えて考えてみる。
もしも市場を通じて大きな利益を得て、お金持ちの仲間入りを果たしたとしよう。
で、その成功をもって幸福な人と言っていいのかなぁ?って疑問が生じる。
金融市場にはお金持ちをより金持ちに貧しい人をより貧しくする機能がある。
別に市場の仕組みが悪いんじゃなくて、最近のような市場の混乱が起きた時、
理性を失ってしまうのは、たぶん資産の少ない順だから。
格差が広がった社会は、お金持ちにとっても住みやすい世の中ではないはず。

なんとなく、最初の牧場経営の話と似てる気がする。
金融市場を利用して裕福になれた時に、とても幸せな人生でした、
めでたしめでたし、ってその人の物語が終わるわけじゃないんだ。
その先に、手にした富を社会のためにどう活かすのか、って考えが必要では?
本当の幸せはそんなとこから始まるような気がする。
それに、そんな考えを持ってる人に自然とお金が集まってくるんじゃないかな。

人生も投資も簡単に勝ち負けが決められるほど単純じゃないってこと。
先日も紹介したソロンとクロイソスの問答より(ヘロドトス「歴史」
人間死ぬまでは、幸運な人と呼んでも幸福と申すのは差控えなければなりません
さすがは不朽の名著、言葉に重みがありますなぁ。

コメント

  1. ぐっち より:

    金融市場は富めるものをますます富ませる機能をもってますが、その理由は心理的な余裕がそうさせるのかもしれませんね。
    こうして増えた資産も欧米の長者のように大部分を社会に還元することが当然とされているのは、やはりヘロドトスの時代からの心理的遺産なのかも。
    「莫大なる富を有するものはしばしば不幸なり。中庸の財のみしか有さぬ者は幸福に恵まれる(歴史より)」
    まろさんが仰るように、手した富を社会のために活かすことで、富める者が"しばしば不幸なり"な状況から一歩前に出るのかなと。

  2. まろ@管理人 より:

     そうそう、古代ギリシアには「黄金の中庸(Aurea Mediocritas)」なんて概念があったらしいですね。中庸、簡単に言うと、ちょうどいいトコって感じでしょうか。
     もしも自分の中でちょうどいいトコを超えてしまった収益は、社会に還元していきたいですね。