まずは小野小町の和歌(古今和歌集939)。
あはれてふ ことこそうたて 世の中を 思ひはなれぬ ほだしなりけれ
「あはれ」と歌を詠まずにいられないから、この世にとどまりたい。
現世で恋歌を詠って生き続けます!、って小町の決意表明なんだって。
「あはれ」はもともと喜怒哀楽すべてを含んだ「!」的な感動詞。
源氏物語で多く使われたから、恋の切なさを愛おしむ心、嘆く心はもちろん、
景色の美しさや情緒深さに感動する心などなど、多様な意味があった。
- 月は有明の東の山ぎはにほそくて出づるほど、いとあはれなり(枕草子)
- 夕暮れの静かなるに、空の気色いとあはれに…(源氏物語・夕顔)
でも、いつの間にか「あはれ」は「哀れ・憐れ」を表す言葉になってしまう。
なんでだろ? 唐木順三は「無常」のなかで、こんなことを言っている。
「無常を語る場合、きわだって雄弁になり、それを書く場合、特に美文調になるという傾向がきわめて顕著であるということが、日本人のひとつの特色と言ってよいだろう。」P177
無常を雄弁に語る、美しい文章の中で、くり返し使われることで、
「あはれ」の中から、特に悲哀を表す感情が、立ち上がってきたのだろうか。
たしかに、「あはれ」に含まれる「せつなさ」や「はかなさ」は、無常に近い。
より共感できるのは、本居宣長が「石上私淑言」のなかで語った、
「おかしき事、うれしき事などには感く事浅し、かなしき事、こひしき事などには感くこと深し。故にその深く感ずるかたを、とりわきてあはれという事あるなり。俗に悲哀をのみあはれといふも、この心ばへなり。」
楽しさよりも悲しさの方が、深く心を動かすから、という理由。
そうかもしれない。身に覚えがあるから。
「この幸せがずっと続いたらいいな」と願っても、いずれ壊されてしまう。
永遠へのあこがれが含まれる感情は、最後は悲哀に集約される。
永遠へのあこがれが一度きりの美しさを感じる心を鈍らせる。
その美しさに気づけても、永遠を望めば、やがて悲しみに変わってしまう。
それでもまだ、ほんのひとときでも、心から喜べる瞬間に出会いたいと思う。
たとえ喜びが悲しみに変わっても、人生を豊かにすることには変わりないから。
参考文献一覧
- 大塚英子「小野小町-コレクション日本歌人選003」P28-31,P107-108
- 小西甚一「基本古語辞典」
- 竹内整一「かなしみの哲学-日本精神史の源をさぐる」P67-71,P119
- 松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」P232-236
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