氷川丸から陸側に向かって視線を向けた先には、
日本の食文化を語る上で欠かせないホテルがある。
ホテルニューグランド。
関東大震災で壊滅的な打撃を受けた横浜市。
その復興のシンボルとして、1927年に現在の地に開業。
そして総料理長としてパリのホテルからやってきたのが、
スイス人シェフのサリー・ワイル(1897~1976)だ。
- コース料理以外にアラカルトを用意した
- ドレスコードを撤廃した
- メニュー以外の料理の注文にも応じた
この時代の日本のフレンチレストランは、
厳しいマナーを守り、重々しく食べる空間だった。
ワイルはこの慣習を打ち破り、
食事の空間と時間は楽しいものでなければならない!
と徹底的にお客本意を貫き、新たな風を吹き込んだ。
ちなみにメニュー以外の料理の代表例が「ドリア」。
ワイルが体調を崩したお客のために創作した料理だ。
ワイルは厨房内にも革命を起こし、
- 料理人の持ち場を半年から一年ごとに変えた
- 料理人の意識改革を行い、社会的地位の向上をはかった
当時の日本では一芸を極めた料理人となることが理想だった。
しかしワイルが断行したローテーション制によって料理人が育ち、
ニューグランドの厨房から日本を代表する名料理人が生まれた。
ワイルの伝記を記した神山典士は、
ローテーションの発想はスイス人ならではの考えと指摘する。
スイスの小学校では、
「一つの言語を覚えると一つの戦争がなくなる。」
と永世中立国ならではの思想を教えられるからだと。
第二次大戦後、スイスに帰国したワイルは、
日本人料理人のヨーロッパ留学の世話役として奔走。
1970年代に帰国したシェフが日本にフレンチブームを巻き起こす。
私たちが日本で美味しいフランス料理を食べることができるのは、
サリー・ワイルと横浜の幸運な出会いがあったからと言えるかも。
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