まずは931~38年に編さんされた辞典「和名類聚抄」。
味噌の語源について語られている。
「末醤は、高麗醤ともいい、美蘇のことである。俗に味醤の字を用いる。本来は末醤といったが、末は搗末の意味である。末を訛って未とし、未を点じて味としたのである。」
つまり魚や肉を塩に漬けて発酵させた「醤(ひしお)」にならざるものとして、
「末醤」と呼ばれたものが、「未醤」→「味醤」と変化していき、
読み方も「みしょう→みしょ→みそ」となっていったということ。
では味噌はどのような食べられ方をしていたのか?
鎌倉時代の「徒然草」215段に北条時頼と北条宣時が
味噌を酒の肴にしていた様子が描かれている。
「・・・『この酒を一人食うべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隅々を求めしほどに、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて・・・」
味噌汁はいつ頃から食卓にあがるようになったのか不明。
禅寺の精進料理にはじまり、江戸時代には一般家庭へ?
インスタント味噌汁の先駆けとも言われる石田三成の遺した言葉がある。
「熱湯に焼き味噌をかき立てて飲めば、終日米がなくとも飢えたることなし。」
記録には残らずとも、米を主食としてきた日本人にとって、
タンパク質を補給するための味噌は重要だったはず。
味噌汁に日本の美学を見た人もいる。
「われわれが毎朝食べる赤味噌の知るなども、あの色を考えると、昔の薄暗い家の中で発達したものであることが分かる。・・・あのどろどろの赤土色をした汁が、おぼつかないロウソクのあかりの下で、黒うるしの椀によどんでいるのを見ると、実に深みのある、うまそうな色をしているのであった。」
谷崎潤一郎「陰翳礼讃」の一節。P29
以前紹介した「ようかん」語りの直後にあたる。
コメント
石田三成(戦国時代)、味噌でインスタント味噌汁と聞くと
芋がら縄を味噌で煮しめて、戦場への運搬に使い、戦場で
芋がら刻んで煮込んで味噌汁にしてた(具は芋がら+適当)
のと糒のセットが浮かんでしまう…。
まぁ、主題からそれましたけど、戦場での食料としてまず
出てくるのが米と味噌汁ってあたり、やはり味噌は必需品
だったのでしょうね。
栄養学の観点から見ても米を主食にしていた日本人には、タンパク質・ビタミンが豊富な味噌はピッタリな組み合わせだったと言えますね。