古今和歌集(905)から時代を下ること300年。
鎌倉時代初期に完成したのが新古今和歌集(1205)。
桜の和歌に込められた想いを辿ると変わったなぁ、という印象。
- 古今和歌集の桜歌(13/03/18)
華やかだった貴族社会が終わり、武家社会がやってきた。
そんな背景もあってか、この世の無常を桜にうつした和歌が目立つ。
はかなくて 過ぎにしかたを 数ふれば
花にもの思ふ 春ぞ経にける
はかなさを ほかにもいはじ 桜花
咲きては散りぬ あはれ世の中
前者は式子内親王(101)、後者は藤原実定(141)の和歌。
両者ともに人生やこの世のはかなさを桜に重ねている。
そして天皇までもが同様の和歌を残している(鳥羽院・1465)。
惜しめども 常ならぬ世の 花なれば
今はこの身を 西に求めむ
咲き誇る桜もやがては散ることを、人生に重ねあわせる。
この時代の代表的な歌人、西行が歌った桜にも数多く現れる。
- 西行「山家集」春の章より桜歌10首(13/02/13)
- 西行-日本の桜観を変えた漂泊の歌人(12/02/08)
無常観といっても決して暗いばかりではない。
日本の古典は無常を語るとき、名文・美文が生まれる特徴があるから。
- 無常が日本の古典を美しくした/唐木順三「無常」(12/11/13)
脱線してきたので、新古今和歌集に話を戻さないと。
古今集と新古今集の桜歌を比較した際に目についたのが、
新古今の桜が散った後の名残や面影を詠んだ和歌。
上から順に藤原雅経(145)、後白河院(146)、源経信(148)。
花さそふ なごりを雲に 吹きとめて
しばしはにほへ 春の山風
惜しめども 散りはてぬれば 桜花
いまは梢を ながむばかりぞ
ふるさとの 花の盛りは 過ぎぬれど
面影さらぬ 春の空かな
心にとどめた美の残像で不足を補う。
後の枯山水や茶道にも見られる美意識が現れ始めているような。
毎年、年初~桜の満開に調べる「日本人が桜に込めた想い」。
今年は今日で最後かな。ではではまた来年。
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