生かされている

ふと思い立って、司馬遼太郎「21世紀に生きる君たちへ」を再読。

私ども人間とは自然の一部にすぎない。
人間は、自分で生きているのではなく、大きな存在によって生かされている。

ほんとうに。なんだか生かされている気がする。
約20年前には疑惑じゃなくて、本当に病気で死にそうになったこともあった。
今回の地震も、距離的に近いこともあって、妙なほど心に響くものがある。

これまでいろいろあったけど、今もこうして生きていられる。
生きることに意義や目的を求めるなんて、贅沢だと分かってる。

生きることの意味と価値について問いかけるようになると、我々は狂ってしまう。なにしろ意味も価値も客観的に実在するものではないのだから。」(by フロイト)

でも、なにか意味があって、生き残っていると信じたい。
そして、生きているかぎり、どんな可能性だって残されていると信じたい。

死ぬ日に向かって、なぜこの世に生かされているかを真剣に考えるのが、わたしたちの今日であり、明日であるのでしょう。
--瀬戸内寂聴「生きることば あなたへ」P21

だれにとっても、人生はほんのわずかな時間なんだよ。一生懸命、今を大切にして、今をがんばらなかったらいけないのとちがうかな。
--酒井雄哉「一日一生」P187

叶って欲しい願いごとがいろいろあるけど…
実現しそうに思えることと、実現することの間には、ものすごく距離がある。
だから人生って、辛いこと、悲しいことが多い。 眠れない日もあるだろう。
でも、今このときを大切に抱きしめて、前を向いてがんばろう。

対訳 21世紀に生きる君たちへ 対訳 21世紀に生きる君たちへ
司馬 遼太郎
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コメント

  1. F より:

    はじめまして。
    非常に興味深いお話ですね。
    私も興じたく、コメントさせていただきました。
    以下、私の完全なる私見です。
    私はこと生きている意味や人生の価値を自分自身に、また他人や社会に問うことは、それ自体が無意味であることを知っているからではないのかと考えます。
    人生の意味や価値などはおっしゃるように客観的には存在しないのでしょう。にもかかわらず、それを追求せしめんとするのは、人間が「希望」なしには生きることが難しい世界に置かれているからではないでしょうか。
    相対的に、他の動物たちがどのような価値観や意識で持って「生きて」いるかなど、我々には議論はできません。
    ただ、人間という生き物は、少なくとも圧倒的な自我、精神性の高い感覚、感情を幸か不幸か持ち合わせてしまいました。
    その中で一人の人間として人生に迷い、懐疑的になるのも仕方ないことなのでしょう。
    結局は答えなどない疑念に応える努力をしなければ、もはやそれは人間たらしめるものを放棄することなのでしょうか。
    私は、拙い小説家として人生を歩まさせていただいております。その仕事というのは、常に自分と外の世界を内面から、時に側面から見続けなければならぬものであると感じています。
    これはまさにまろさんのおっしゃるところの「意味」を追求することと通じるところがあるやもしれません。
    しかし、50年近く生きてきて、そこからも、常の生活からも「生」の答えなど見出すことは・・・・ついにできませんでした。
    人というものは無意味な世界に意味を見出し、または答えを創り上げる。その矛盾の中に希望があり、苦悩があるんでしょうか。
    長文失礼いたしました。

  2. まろ@管理人 より:

    Fさん、はじめまして。
    深いコメントありがとうございます。
    私の能力の限界で、うまくお返事書けません…。
    できたらお目にかかってお話伺えたら嬉しいです。