幽玄(有限)の中に無限の美を見る

あはれ」を調べたら、次は「をかし」へ行くのが王道なんだろうけど、
気ままに日本を切り取ってるから、なぜか続けて「幽玄」が気になった。

幽玄の定義付けで、一番有名なのは、鴨長明が「無名抄」で示した

詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし。

目に見えなくても、そこはかとなく感じられるのが「幽玄」であると。
また、幽玄の美意識を詠った和歌の代表作とされるのは、
藤原定家

見渡せば 花も紅葉も なかりけり
浦の苫屋の 秋の夕暮

いったん詠んだ花と紅葉を「なかりけり」と打ち消す。
これにより、記憶の中の花や紅葉の面影が、心の中に立ち上がってくる。

また、武野紹鴎千利休が、定家のこの歌はわび茶の美意識に通じる、
と称賛していたことが、利休の秘伝書とされる「南方録」に記されている。

「世上の人々そこの山かしこの森の花が、いついつさくべきかと、あけ暮外にもとめて、かの花紅葉も我心にあることを知らず。只目に見ゆる色ばかりを楽しむなり。

和歌から茶道にまで広がっていく、幽玄の美意識。
この幽玄の美意識をブランドの根幹にそえて、能を大成させたのが世阿弥
世阿弥の能楽論「風姿花伝」には、キーワードとして「幽玄」が頻発する。
その心を、もっともシンプルに表したのが、たぶんこれだろう。

秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。

あえて隠したり、省いたりすることで、受け手の想像力にまかせる。
そうすることで、すべてが限りあるこの世界に無限の美を演出する。

こんなところが幽玄の美意識なのかな。知力の限界で今日はここまで。

参考文献
村尾誠一「藤原定家-コレクション日本歌人選011」P8-9
田中仙堂「茶の湯 名言集」P64-70
竹内整一「かなしみの哲学-日本精神史の源をさぐる」P172-177
松岡正剛「17歳のための世界と日本の見方」P275-280
世阿弥「風姿花伝・三道」(角川ソフィア文庫)