宮崎で西都原古墳群を鑑賞してきたので復習にと、
といった本を読んでいるのだけど、
なんとなくモヤモヤして、頭がまとまらない。
とりあえず現地で説明を受けた
西都原(さいとばる)は、古来より「斉殿原」と表記されており、祭祀が行われる神聖な場所だった。
という話は少し違うのかなという印象。
詳しく当地の名称の変遷を調べると、
- 平安末期…可愛田原(えのたばる)
- 室町末期から江戸中期…斉殿原(さいとのはる)
- 江戸後期~…西都原(さいとばる)
なっていた。
一番古い名の「可愛(えの)」は、ニニギノミコト関連?
鹿児島にニニギノミコトの御陵とされる「可愛山陵」がある。
また日本では古墳と祭祀が結びつかないのが謎の一つで、
森下章司「古墳の古代史」では中国・朝鮮との比較で、
「中国の陵園は、亡き王の祭祀を継続してゆくための重要施設だ。後漢代では、庶民の墓でも代々の墓を一定の敷地内に築き、定期的に祭祀・儀礼を行なっている。百済や新羅でも同じ場所に代々の王や一族の墓が継続して築かれており、祖先祭祀がおこなわれていた。」
「倭でも「大王墓系列」や「首長墓系列」と呼ばれるが、何代かにわたってある地域に支配者の墓を統いて築く風習はあった。しかし、それらをまとめ、祖先として祭祀・儀礼をおこなった跡はみつかっていない。あるいは墳墓とは別の場所に設けられていたのであろうか。祖霊祭祀は、宮殿や居館でおこなわれたとみる説がある。」
古墳の建造された時代には、この場で祭祀をやらないはず。
西都原古墳周辺で神殿跡等が出土したという記述も見当たらなかった。
「斉殿原」という名は古墳の来歴が失われた後に付けられたもので、
ここが神聖な場所だから古墳が作られた、と考え方をするとおかしくなる。
コメント
西都原の東に調殿(つきどの)神社がありますが、これの旧称が斎殿神社(読み同じ)です。
斎殿原と書いて「さいとのばる」と読ませているのが通例ですが、斎が音読み、殿が訓読みと古い地名にしては不自然だと思っています。
もしかしたら、嘗ては「つきどのばる」とよばれていたのかもしれませんね。