はたして投資を客観的に語ることができるのか?
生物哲学者、ユクスキュルの「環世界」を例に以前も説明したけど、
認識できた現象や数字だけを抜き出しても主観的にしか語れない。
今まで触れてきたものの中から問題点を拾い集めると、
とまぁいろいろあるけど、仕事として成り立たせるためには、
客観的に見えるよう仮面をかぶせることも必要だよね。
でも客観へ傾きすぎると本来持っていた「心」が失われる。
SRI(社会的責任投資)への違和感はこのあたりにあるのかな。
2009年からブルームバーグの端末でESG情報を検索できるようになり、
外部の評価機関に頼らずとも客観的な分析が簡単に可能になった。
でもこうした数値分析によるSRIが今後の主流になっていくなら、
市民目線での社会貢献のイメージからは遠ざかっちゃうだろうね。
- 専門家のためのSRI(客観重視)
- 一般市民のためのSRI(主観と客観のあいだ)
前者は運用規模を追って年金運用の受注を目指し、
後者は金融商品を通じて個人投資家の共感を集める。
こんな調子で住み分けが進んでいくのかもしれない。
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コメント
「あること」を説明しようとすると、分析的になって、その部分像をツギハギして説明することになります。
でも部分を全部足しても、全体にはならない。
何か肝心な、説明しようと思っても言語化できない何かが残る。
たぶん、それが主観が必要なところなのでしょう。
「全体」「まるごと」は、ぱっと見た(聞いた)印象が大事であったりしますから、それは分析的には(ROEなどの指標的には)説明できないものだったりします。
でも売るときの説明は、客観的な説明しかできないですものね。ただ、それを作った人であれば、その思い入れ、ポリシー、哲学を語ることができる。売っているのは「商品」ではなく、「その人」なんですねぇ。
部分の積み上げが全体になる、というのはデカルト以降の発想ですね。
http://www.pixy10.org/archives/12210253.html
それを貫き通して、経済学なんかは20世紀、実証可能な「予測」を生み出すことが経済理論を確立する真の目的だ!みたいな感じになっておかしくなった。
世界を読み解く言語は数学だろうけど、こころ(哲学)を忘れちゃバランスが悪い。
なんでも「間(あいだ)」が大事。切り分けられない「あいまい」なところに真実がある。そう感じることが多い日々です。