主観と客観の転換点/デカルト「我思う、ゆえに我あり」

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デカルト「方法序説」の記事が思いのほか好評なので、
オマケでデカルトについて調べてたときに出会ったおもしろい話。

subject(主観)とobject(客観)の日本語訳の不思議について。
まず英語の語源を古代ギリシアまでさかのぼると…

  • hypokeimenon…あらゆる物事の基礎となるもの(実体)
  • antikeimenon…心の中で考えられたもの(表象)

こうした語源から日本語訳をあてはめると、
subject(客観)とobject(主観)というように今と逆の意味
になる。

なぜひっくり返ってしまったのか?

この転換点となった言葉がデカルトの「我思う、ゆえに我あり」 。

考える「私」という存在は、この世でもっとも確実な存在。
このルネサンスの流れをくむ人間中心主義の考え方によって、
人の心や意識があらゆる物事の基礎と捉えられた

これによって“subject”こそが主体であり主観となった。
そして”object”は心の中にあるものだったはずが、
心の外にある客観的に存在する物という意味に変わってしまった。

このあたりの衝撃が名言として伝わるゆえんなんだろうね。

※参考文献…「数学者の哲学+哲学者の数学」P73-75

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