ロボタクシー「サイバーキャブ」発表の際(2024年10月)、
イーロン・マスクがプレゼンでこんなことを語っていた。
サイバーキャブが普及すれば、個々人が車を所有する必要がなくなり、
都市部では「parking」を「park」に変えることができるんだと。
この発言に対して投資家として次のどちらの反応をするか。
- 自動車会社が車を売らない未来? テスラの「企業価値」をどう算定すべきか?
- 社会課題に対して独自の「価値」を表明する。それが企業そして経営者の本来あるべき姿だ。
ここで語られる2通りの「価値」は同じ言葉でも中身は別物。
その違いを整理する手助けとなる記述を、
石井光太郎「会社という迷宮」の中に見つけた。
以下は自分なりに編集を加えてしまったため原文通りではない。
- モノ自体に普遍的な価値があるのではなく、人それぞれの主観がそれに「価値」を認めるものだ。価値は本来、客観的に測ることはできない。
- 様々な主観的な「価値」を「価格」という一つの尺度によって統一する場所が「市場」。市場メカニズムは「価格」こそがモノの「価値」なのだという錯覚を生んだ。
- 「価値」は主観的に決められるものではなく、絶対的で普遍的なもの、主観とは別のところで公平・公正に客観的に決められるものという考え方が主流になった。
- 企業経営や株式投資においては、共通の尺度・指標を「計測」し、同業他社比較することで、客観的な企業価値が評価できるという錯覚に繋がっている。
- 世の中に対して新しい「価値」を問うのが企業のあるべき姿。しかし近年は「計測」の精度を上げることばかりに力を入れている。「KPI(重要業績評価指標)」という言葉を出会ったら見識を疑った方が良い。
- 独自の価値観を表明することなしに、「成長」や「利益」などの「KPI」を強調する会社は、外部の計測者たちの奴隷である。
誰もが知りたいと願う、普遍的な「○○の意味」や「○○の価値」。
経済を離れ、哲学に目を向けた時、個人的に最も腑に落ちるのが、
ヴィトゲンシュタインの言葉(論考6.41)。
「世界の意味は、世界の外側にあるにちがいない。世界では、すべてが、あるようにしてあり、すべてが、起きるようにして起きる。世界の中には価値は存在しない。もしも仮に価値が存在しているのなら、その価値には価値がないだろう。」
「価値のある価値が存在するなら、その価値は、「起きることすべて」や「そうであることすべて」の外側にあるにちがいない。というのも、「起きることすべて」や「そうであることすべて」は、偶然なのだから。」
そもそもこの世界に普遍的な意味や価値は存在しない。
だからどんなに学んでも、本質は分からないままなのかもしれない。
でも分かりそうで分からない状態を楽しんで追いかけることで、
独自の価値観を育むことが、豊かな人生に不可欠だと思う。







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