生きるまで生きたらば…/前田慶次「無苦庵記」

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隆慶一郎「一夢庵風流記」の描写よって評価が一変した前田慶次
天下御免の傾奇者」として戦国時代に欠かせないスターとなった。

「無常→数寄→幽玄→わび・さび」という、日本の美意識の系譜。
思えばその対極には「傾奇」の世界が常にあった。

1336年に足利尊氏が定めた「建武式目」の17ヶ条の一番最初に、

一 倹約を行はるべき事

近日、婆左羅と号し、専ら過差を好み、綾羅、錦繍、精好、銀剣、風流、服飾、目を驚かさざるはなし。 すこぶる物狂いといふべきか。

婆左羅(バサラ)や過差(分不相応なぜいたく)の禁止を
幕府の施政方針に掲げなければならないほど、世の中は傾奇ブーム。

平安末期から田楽や今様など「過差」が日本を席巻し、
その対極で西行一休のような人物によって日本の心が創られる。

そして前田慶次という人物が、本当に傾奇者だったなら、
「過差」と「わび・さび」を股にかけた風流人として注目するのもおもしろい。

慶次が晩年に記したとされる「無苦庵記」の一節。

そもそもこの無苦庵は孝を勤むべき親もなければ憐むべき子も無し。こころは墨に染ねども、髪結がむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず、足の駕籠かき小揚やとはず。七年の病なければ三年の蓬も用いず。雲無心にして岫を出るもまたをかし。詩歌に心なければ月花も苦にならず。寝たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。九品蓮台に至らんと思う欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。生きるまで生きたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ。

生きるだけ生きたら、あとは死ぬだけさ…。
自由奔放に乱世を生きた、慶次が晩年辿り着いた無心の境地。
どんな人物だったのか、もっと史料が出てくるといいなぁ…


現代語訳…そもそも、私こと無苦庵には、孝行をつくすべき親もいなければ、憐れみいつくしむべき子供もいない。わが心は墨衣を着るといえるまで僧侶には成りきらないけれども、髪を結うのが面倒なので頭を剃った。手の扱いにも不自由はしていない。足も達者なので駕籠かきや小者も雇わない。ずっと病気にもならないので、もぐさの世話にもなっていない。そうはいっても、思い通りにならないこともある。しかし、山間からぽっかり雲が浮かびあらわれるように、予期せぬこともそれなりに趣があるというものだ。詩歌に心を奪われなければ、月が満ち欠け、花が散りゆく姿も残念とは思わない。寝たければ昼も寝て、起きたいときには夜でも起きる。極楽浄土でよき往生を遂げたいと欲する心もないが、八万地獄に落ちる罪も犯してはいない。寿命が尽きるまで生きたら、あとはただ死ぬというだけのことであろうと思っている。--今福匡「前田慶次」P184を参考に一部修正

コメント

  1. とします より:

    起きたくなければ夜も起きる
    なんか違くない?

  2. まろ@管理人 より:

    「起きたくなれば夜でも起きる」でしたね。
    ご指摘ありがとうございます。

  3. yoromaru より:

    「起きたくなれば夜でも起きる」でしたね。
    ご指摘ありがとうございます。?????
    「起きたいときには夜でも起きる」なのでは?

  4. まろ@管理人 より:

    なるほどその方が読みやすいですね。
    この際、引用元の文章を離れて、下記のように変えました。
    ご指摘ありがとうございました。
    (旧)寝たければ昼も寝て、起きたくなれば夜でも起きる。
    (新)寝たいときには昼も寝て、起きたいときには夜でも起きる。