東大寺では大仏殿が外国人観光客を中心に喧騒の真っただ中にあるが、
天平時代の創建当時の姿が拝める「転害門」は静寂につつまれている。
東大寺のなかで平重衡(1180年)、松永久秀(1567年)による戦禍を免れたのは、
この転害門ほかには法華堂(三月堂)と正倉院がある。
名前の由来
この門はいろいろな名前で呼ばれており、その名前の由来は、
- 転害門…大仏殿から見て西北にあたり、吉祥の位置で害を転ずる意味。
- 碾磑門…碾磑は石臼のことで、かつて門の近くに製粉所があったとも言われる。
- 手貝門…門周辺の町名が手貝。「てんがい」が「てがい」と読まれるようになった背景?
「てがい」の音とはまったく関係のない名前としては「景清門」。
鎌倉時代に源頼朝が東大寺へ訪れた際、平家残党の悪七兵衛景清が、
頼朝暗殺を狙ってこの門に潜んだという逸話から付いた名称。
八幡神とのかかわり
八幡神は日本の神話(古事記・日本書紀)には登場しないが、
八幡信仰の神社は全国で最も多く、伊勢信仰を上回る不思議な神様。
なぜ八幡信仰が全国的に広がったかを辿ると大仏建立に辿り着く。
総本社である宇佐神社(大分県宇佐市)が大仏建立に協力したことで、
大仏鋳造直後の749年12月に八幡神が紫の輿に乗って転害門をくぐり、
東大寺の守護神として八幡神が祭られることになった。
ちなみにこの時の輿が「神輿」の原型であり、
八幡神が国家守護神として全国的に広まるきっかけだった。
なお東大寺の境内に鎮座する手向山八幡宮の祭礼は、
上記の八幡神が転害門を通ったことにちなんで「転害会」と呼ばれており、
門の中央には神輿安置用の小礎が4つ据えられている。
西岡常一も学んだ節だらけの柱
門の正面から向かって右手前、南西面の柱が節だらけになっている。
長い年月を経て木が乾燥し、細くなったことで、節が露出したものらしい。
地元のボランティアガイドによると、
最後の宮大工と称された西岡常一(1908~1995)も見に来ていたのだとか。
かつて西岡棟梁は法隆寺の宮大工に伝わる口伝
「木は生育の方位のままに使え」を紹介する中で、
「山の南に生えていた木は塔を建てるときに南側に使えというているんですな。同じように北の木は北に、西の木は西に、東の木は火が氏に、育った木の方位のままに使えということですな。このとおり気を使うとどうなるかといいましたら、南に育った木には枝がありますから、たくさん節ができますわ。ですから南の柱に節が多いものが並ぶことになります。」
と語っている。
口伝の正しさを転害門のこの柱が証明している。
その他のボランティアガイド情報
- かつては門扉があったが、廃仏毀釈の影響で扉を開け放ち、東大寺内部に誰もが入れるようにしたと考えられる。
- 野良猫のすみかになっていた時期があり、猫のひっかき傷がたくさん残っている。
- 転害門のすぐそばにある「奈良市立鼓阪小学校」は明石家さんまの母校。
東大寺を訪れたら転害門を観ずに帰ってはダメ!
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