投資家より投機家でありたい

株式投資をはじめた頃は、「投資」と「投機」なんて言葉を対比し、
自分は「投機」ではなく「投資」をしているのだと主張したがったものだ。
個人投資家のバイブル、ベンジャミン・グレアム「賢明なる投資家」が、
第1章で投資と投機の区別の説明からはじまる影響である。

まず「投資家」とは何者か、というところから始めよう。・・・投資とは、詳細な分析に基づいたものであり、元本の安全性を守りつつ、適切な収益を得るような行動を指す。この条件を満たさない売買を、投機的行動であるという。

この文章によって「投機」に悪いイメージがついてしまいがち。
しかし、言葉をよーく調べてみると、違うものが見えてくるよ。

「投機」の英語”speculation”には、グレアムの言う意味合いもあるが、
when you guess about the possible causes or effects of something without knowing all the facts, or the guesses that you make”(Longman)
が本来の意味であり、それを日本語に戻すと「思索」「推測」になる。

また本来「投機」は、のことば。
5年前にも紹介しながら、理解できずに投げた、玄侑宗久氏のコラム

投機とは、本来は「機に投ず」と読み、修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指す言葉だった。・・・なんだか難しく聞こえるかもしれないが、要するに本当の投機とは、からだ一つに戻る勇気のことだ。お金はなくとも、学歴もなくとも、人の「いのち」は営々と営まれ続けている。自然と一体になって生きているこの「いのち」に目覚めるためには、身につけてきた一切の概念を捨てよと、禅は云うのである。

私たちは鉄くずや紙ペラにすぎないものに、価値と信用を上乗せしている。
貨幣そのものにバブルが生じている以上、お金はどこまでいっても虚構。
でも、人類が長きにわたり求めた「自由」は、今ではなぜか「お金」を指す。
そして「お金」を重んじた結果、私たちはかえって「不自由」になった。

本当の「投機」を求めた上で、再び「投資」を見つめ直したい。
投資家よりむしろ、投機家でありたい。そんなことを願うのだった。