現代に失われた「待つ」という情緒

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スマホでいつでも暇つぶしができるようになったことで、
退屈したり、イライラせずに「待つ」ことができるようになる?
と思いきや…逆に慢性的な退屈状態に陥っているようで。。。

最近なにかの本の脚注で見つけてメモしていた論文。

Katy Y.Y.Tam & Michael Inzlicht “People are increasingly bored in our digital age”(2024)

スマホによって過去10年間、人々の退屈感は上昇中とのこと。

  • 人は集中力が続かないと退屈に感じる
  • 一貫性のない情報を浴びることで、人生に意味を感じにくくなる
  • より楽しいものがあるのでは?と目の前のことを退屈に感じる
  • 何もしない時間への不快感が増幅する

近年の「タイパ重視」や「倍速視聴」とも繋がっていそうな論文だった。

投資をしていると「待つ」ことの重要性を感じることがしばしば。
十数年前から保有している企業の株価がここ2ヶ月で爆騰。
この数年は業績も株価が横ばいだったから、待ったかいがあった。
世の中がどんどん短気になっていくと、こういう機会も増えるのだろうか。

「意のままにならないもの、偶然に翻弄されるもの、じぶんを超えたもの、じぶんの力ではどうにもならないもの、それに対してはただ受け身でいるしかないもの、いたずらに動くことなくただそこにじっとしているしかないもの。そういうものにふれてしまい、それでも「期待」や「希い」や「祈り」を込めなおし、幾度となくくりかえされるそれへの断念のなかでもそれを手放すことなくいること、おそらくはそこに、〈待つ〉ということがなりたつ。」(鷲田清一「『待つ』ということ」

「待つ」とは信じて、祈ること。
そう捉えると「待」という文字の右側が「寺」であることに納得。

最後に百人一首の選者、藤原定家が自選した一首。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの 身もこがれつつ

待ってもあなたは来てくれなかったけど、
私はいつでもあなたを想い、恋いこがれています。

名歌を数多く残した定家が、なぜこんな凡庸な詩を?
と専門家が疑問視する記述をたまに目するけど、
今の時代にはピッタリの想いが込められていて興味深い。

効率的に満たされることばかりを求めて、私たちの時代にはあった、
意のままにならないものを待ち続ける精神的余裕を忘れていないか?
という時代を超えた定家からのメッセージを感じるのだった。

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