日本を動かしてきた「顕」と「隠」

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前回に引き続き「日本問答」出版記念対談の復習メモ。

顕(あらわるるもの)と隠(かくるるもの)

慈円(1155~1225)が歴史の道理を読み解こうとした「愚管抄」に、
こんな一節がある。※講談社学術文庫の現代語訳版P394

物ごとの背後には、目に見えない冥の道と目で見ることのできる顕の道という二つの筋道があり、また邪神と善神の御争いというものがあって、それらが表にあらわれたり、内にこもったりしているのが明確にわかってくる。

歴史・文化は「冥」と「顕」のせめぎ合いの中で生まれるもので、
たとえば菅原道真は後の世のために「冥」を担った神であり、
「顕」なる存在である摂関家・藤原氏を支えたと慈円は定義している。

慈円は指摘していないが、実は神話以来の日本の国のあり方で、

  • 古事記…国譲りのときにオオクニヌシが「私は隠れてさぶらうことにした」と言う。※「ぶらう=隠れてお仕えする
  • 日本書紀…これまでオオクニヌシが治めていた「顕露」のことは皇孫(天皇)が治めていくから、これからは「神事」のほうを治めなさいと、タカミムスビが言ったという展開に。

人間社会である「顕世」と神々の世界である「隠世」との区別が描かれる。
被支配・支配の関係ではなく「顕」と「隠」で歴史を語る原点はここにある。

才と能の組み合わせ

日本では才能は「才」と「能」との二つが共に合わさらないとだめだとされていた。

  • 「才」…人間ではなく、もの(素材)のほうに備わっているもの
  • 「能」…ものに秘められた「内なるもの」を「外に出す」こと

たとえば木や石にある「才」を引き出すのが庭師の「能」ということ。
その代表例は日本最古の庭園書「作庭記」のこの表現。

石の乞はんにしたがひて立つべき也

ここにも「顕」と「隠」の関係性が見え隠れし、
「能」は外来だが「才」は日本の風土に根ざしたもの、
という方法は、

  • 中国から渡来した漢字に日本の音を当てて万葉仮名をつくる
  • 日本古来の信仰と仏教を融合させた神仏習合

にも通じている。

>>>つづく

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