マインドフルネスは禅なのか?

最近よく見聞きするようになった「マインドフルネス“mindfulness”」。

仏教用語の「サティ”sati”(念、気付き)」を英訳した言葉で、
やり方は坐禅と同じに見えるので、変質した「禅」の一種だろうか?

夢窓疎石「福を求める欲を捨てよ」

ただマインドフルネスは心身ともに健康になることが科学的に立証され、
その効果を得ようと坐禅を組むところが、禅の本質と違うのかもしれない。

鎌倉末期~室町初期の臨済宗の禅僧、夢窓疎石(夢窓国師)が、
足利尊氏の弟、直義と交わした問答の記録「夢中問答集」。

出だしの数話は幸福追求の問答になっており、
夢窓疎石が直義を次のように諭している。

福を求むる欲心をだに捨つれば、福分は自然に満足すべし。」(1話)

幸福を求めようとする欲を捨てれば、幸福は自然と満ち足りるもの。

もし欲心を捨てむと思ふ志、福を願ふ心のごとく、懇切ならば、捨てがたしとはいふべからず。・・・もし人、世間・出世間の一切の欲心を直下に放下せば、本分の無尽蔵忽ちに開けて・・・自を利し他を利することきはまりなかるべし。とても欲心を発すすとならば、何ぞかやうの大欲をばおこさざるや。」(4話)

欲を捨てようと思う心が幸福を願う心と同じくらい強ければ捨てられる。
一切の欲を捨てれば、悟りの境地に達し、心は満たされるだろう。
同じ欲ならこの境地に至りたいという「大欲」を持つべきではないか?

簡潔まとめると、

追い求めてしまうと、幸せはいつも少しだけ先にあって手が届かない。 
心を落ち着ければ、幸せがいつも身近にあることに気づくはずだ。
だからこそ欲を捨てよ。そうすることで自然と心が満たされるだろう。

というような意味合いだろうか。

つまり個人の心の満足やビジネスでのパフォーマンス向上を求める
現代のマインドフルネスは、禅とは本質的に異なるものと言えるだろう。

宗教は経済活動とつながりをもつもの

ただ一方で古くから経済と宗教には密接なつながりがあった。

というと、
マックス・ヴェーバー「資本主義の倫理とプロテスタンティズムの精神」
が真っ先に思い浮かぶかもしれない。

日本では古来より空にかかる「虹」は天地を結ぶ橋と考えられていた。
虹を渡って神や精霊が俗界に降りてくる。
そこに「市」をたてて交易を行う習慣があったとされる。
つまり神様を喜ばすための経済活動といった位置づけだ。

また室町時代の商業は仏教との関わりが深く、
日明貿易で輸入される美術品(唐物)の目利き同朋衆は、
鎌倉仏教、一遍の時宗に由来する「阿弥」集団だったし、
応仁の乱後の京都の町衆の間は日蓮の法華教が浸透していた。

こうして歴史を振り返ると、坐禅が資本主義とかけ合わさって、
マインドフルネスという形で現れるのは、世の必然といったところだろうか。

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