多神教で評判が大切な日本。普遍的な枠組みへの適応は苦手。

ESG投資、スチュワードシップ・コード、SDGs、コーポーレードガバナンスなど、
国内の企業や投資家が海外からもたらされる基準や枠組みにオロオロしている。

いわゆるグローバル・スタンダードに振り回されているわけだが、
どうしていつも普遍的な枠組みは欧米からもたらされることが多いのか?
そして日本はなぜ、うまくこの波に乗れずに右往左往するのか?

評価と証明を積み重ねる欧米・評判重視の日本

田中優子・松岡正剛「日本問答」の対話の中に興味深いヒントを見つけた。

ヨーロッパの知は、評価と証明を重ねようとしてきた。それが数学や科学を発達させたわけです。でも、日本の評価って「評判」ですからね。権威にならないんです。そこがおもしろいところで、それでもその評判によって「世間」というものが成り立ってきた。」(田中)

日本はレビュテーション(評判)が好きすざて、エバリエーション(評価)を闘い合わせてこなかった。そのためヨーロッパ的な「世界」はユニバーサルな普遍性を必要とするけど、日本的な「世間」はそのつどの構成感覚で済んでしまうようになったんでしょうね。」(松岡)

なるほど社外取締役の選び方にそれが現れているように思える。
世間の評判を重視した人選で、取締役会を評価する機能は有しない。

一神教の欧米・多神教の日本

上記のような欧米と日本の違いはやはり一神教と多神教の違いではないか。

キリスト教のように唯一神なら、神に認められるには絶対的な基準がある。
基準や枠組みを作って統制を図ろうとするのは、一神教ならではなのかも。

一方で八百万の神の日本。
多くの神様から見られている感覚の日本人には、唯一絶対的に従うものはない。
なるべく多くの神様に認められるといいな、といったゆるい感覚しかない。
多くの神様が世間となり、評価より評判が大事な国になったのでは?

宗教的な違いから最近やっかいだなと思うのは、
2015年に気候変動枠組条約締約国会議で採択されたパリ協定。

noting the importance for some of the concept of “climate justice

おそらく一神教の国々が考える”justice”は、日本の「正義」よりも重い。
このあたりの感覚の違いから、海外投資家に日本企業が叩かれることもありそう。