霊を感じる出雲、仏を拝む奈良、庭を拝んで感じる京都

かつての日本の中心地を訪れて、その文化を探求する旅をしていると、
崇高な魅力あり!と考えられてきたものの移り変わりが見てとれる。

霊を感じる出雲

出雲には古事記を由来とする神社が多数存在する。
神社は神が常駐する場ではなく、神がときおり訪れる際の仮の宿。
私たちは神様がいるかもしれない可能性にかけて願い事をする。

古代日本の信仰は神の存在を「拝む」ことは重要ではなく、
様々なものに宿る精霊の存在を心身で「感じる」ことが重要だった。
古代の信仰に思いをはせるには、出雲大社よりも韓竈神社がオススメだ。

仏を拝む奈良

やがて仏教が伝来し、その頃に都のあった奈良は寺院の都。
金堂と呼ばれる壮麗な建物に納められた仏像に頭を下げ、手を合わせる。

聖なるものの本源が人を超越した人の像として目に見える形でそこにある。
目に見えないものを「感じる」信仰から、目に見えるものを「拝む」信仰へ。
出雲と奈良の精神性の一番の違いはここにある。

庭を拝んで感じる京都

奈良から京都に都が移っても仏教が中心であることには変わりがない。
しかし夢窓国師のような庭造りに没頭する高僧が現れたことで、

京都の寺院では仏像よりも石庭が参拝の対象のような扱いだ。

本来、納経の証である御朱印は、本尊の名前が記されるのが一般的だが、
枯山水庭園の代表である龍安寺では中央に力強い字で「石庭」。

そして枯山水庭園は心の中で水の流れを感じることで完成する。
出雲の「感じる」と、奈良の「拝む」が京都で出会ったように思える。