小林秀雄、人工知能を論じる。

小林秀雄が将棋と人工知能について言及したコラムを書いていた。
1959年のことだ。※「考えるヒント」の冒頭に収録されている。

常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか。

この疑問を持って、物理学者、中谷宇吉郎との問答の末に、
小林は以下のようなまとめ方をしている。

機械は、人間が何億年もかかる計算を一日でやるだろうが、その計算とは反覆運動に相違ないから、計算のうちに、ほんの少しでも、あれかこれかを判断し選択しなければならぬ要素が介入して来れば、機械は為すところを知るまい。これは常識である。常識は、計算することと考えることとを混同してはいない。将棋は、不完全な機械の姿を決して現してはいない。熟慮断行という全く人間的な活動の純粋な型を現している。

「機械が計算すること」と「人間が考えること」は別物であると。

ただしハードとソフトの概念もなかった60年近く前の性能の機械を前提としている。
中谷はすべての将棋の手数を読むには神であっても何億年もかかると考え、
小林は人間の脳と同等の人工知能を作るには費用の面で無理と考えていた時代の話だ。

IT技術の飛躍的な進歩により、昔の考え方は役に立たないのだろうか。
小林はこのコラムの末尾でこんなことを書いている。

常識がなければ、私達は一日も生きられない。だから、みんな常識は働かせているわけだ。併し、その常識の働きが利く範囲なり世界なりが、現代ではどういう事になっているかを考えてみるがよい。常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事であろうか。

おそらく小林の言う「常識」は「自分の頭で考えること」。
だが人間は少しでも難しい話になると考えることをやめてしまう。

人工知能の進化に対して脅威を抱くよりも、
人間頭脳の退化の方を深刻に受け止めるべきではないか。

時を経ても色あせない本質が論じられているように思えた。