長田弘「人生の特別な一瞬」

以前たまたま手に取った食に関する詩集が面白かったので、

たまに図書館で著者の本を借りてきて読んでいる。

昨日書いた記事のつながりで、

人生の特別な一瞬」というタイトルに惹かれて読んだエッセイ集。

人生の特別な一瞬というのは、本当は、ごくありふれた、なにげない、あるときの、ある一瞬の光景にすぎないだろう。そのときはすこしも気づかない。けれども、あるとき、ふっと、あのときがそうだったのだということに気づいて、思わずふりむく。

 ほとんど、なにげなく、さりげなく、あたりまえのように、そうと意識されないままに過ぎていったのに、ある一瞬の光景が、そこだけ切りぬかれたかのように、ずっと後になってから、人生の特別な一瞬として、ありありとした記憶となってもどってくる。

 特別なものは何もない。だからこそ、特別なのだという逆説に、わたしたちの日々のかたちはささえられていると思う。人生は完成でなく、断片からなる。「人生の特別な一瞬」に書きとどめたかったのは、断片の向こうにある明るさというか、広がりだった。」(あとがき)

ある瞬間に着目することで目の前が開けていく感覚は微分積分のようだ。
微分積分は数学者が「瞬間」や「極限」に立ち向かったときに現れた。

多くの物理法則はこの微分方程式を基礎としているが、
あらためて数式を見直すと、その隠れた主語が「時」であることが分かる。

たまらなく美術館へゆきたくなるときがある。そして、美術館へゆき、見たかった絵や彫刻の前に立つと、ふだんはすっかり忘れている小さな真実に気づく。わたしたちの時間というのは、本来は、こんなにもゆっくりとして、すこしも気忙しいものでなく、どこか慕わしい、穏やかなものだったのだ、ということに。」(美術館へゆく)

夕陽はマジシャンだ。黙って、眺めているだけで、いつしか気もちの奥まで、あかあかと明るくされてゆく。やがて、ありふれた一日が、すばらしい一日に変わる。ありふれた出来事が、すばらしい記憶に変わるのだ。」(夕陽を見にゆく )

すべてがおどろくほど変わってゆく世にあって、何事もないかのように、そこにまっすぐに立っている大きな欅の木を目にすると、信じられるものがここにある、と思える。大きな木にひとが惹きつけられるのは、大きな木はひとの心のなかに、気づかぬうちに、その木と共に在るという確かな思いなそだてるためだろう。心の定点としての木をどこかにもっているかどうかで、人生の景色の見え方は、あざやかさがちがってくる。」(欅の木)

流れゆく時の中に特別な一瞬をつかめるかどうか。
物理法則の発見も、豊かな人生への気付きも、根底は同じところが興味深い。