知性の限界を超えるための「不立文字・教外別伝」

の「不立文字・教外別伝」とは?

の教義を特徴を表した言葉として、

  • 不立文字(ふりゅうもんじ)
  • 教外別伝(きょうげべつでん)
  • 直指人心(じきしにんしん)
  • 見性成仏(けんじょうじょうぶつ)

という4つのキーワードがあるという。

私なりに解説を付け加えると、

  • 論理的な思考を手放した体験にこそ本質があり、文字にすることはできないから(不立文字)、
  • 経典に囚われずに、師匠から弟子へ体験を通じて伝えていくべきだ(教外別伝)。
  • 人が本来持っている清らかな心を見つめることで(直指人心)、
  • 心の奥にある仏を見出すことができるだろう(見性成仏)。

このうち「不立文字」と「教外別伝」の2つについては、
最近になってこんな感じかな?と思うことがあるので書き留めておく。

荘子「古人の糟粕」

禅は老荘思想を流れを汲むと言われており、
荘子の天道篇の末尾に「不立文字」に通ずる一節がある。

王様が昔の聖人の言葉が書かれた書物を読んでいると車大工が、

君の読む所のものは、古人の糟粕のみ

と言い放つ。

その心は車輪をつくるコツは手から心へと伝わるもので言葉にできないから。

私たちは物事を言葉にまとめる時には論理的に組み立てていくが、
この方法論では本質から遠ざかる、というのが荘子や禅の考え方だ。

さらに深入りすると人間の知性の限界のようなものが見えてくる。

「分かる」とは「分けて」考えること

人間の知性に由来する言葉は「分ける」ことを原点としている。
たとえば漢字の成り立ちがそれをよく表している。

  • 理解・解釈…「解」は牛の角を刀で切り取る意味
  • 分析・解析…「析」は木を斧で切り分ける意味

これが前後や善悪、美醜など物事を二元的にとらえることにつながるのだが、
この方法論ではどうにもならない違和感が生じることも多い。

だから禅は言葉による論理よりも体験による直感を重視するのでは?

そして分けて考える知性は人工知能による模倣が容易と思われるので、
禅的思考法の応用や直感の磨き方について引き続き考えたい。