読者家を自負する日本人の誰もが読んでいる、
- 内村鑑三「代表的日本人」(1894年)
- 新渡戸稲造「武士道」(1900年)
- 岡倉天心「茶の本」(1906年)
この3冊が英文で世界に発信された時期は、
日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)を通じて、
日本が文明国の地位を獲得しようとしていた時期にあたる。
それ以前の日本の美徳が失われてしまうような焦燥感・切迫感が、
どの時代よりも強かった時期とも言えるだろう。
そしてこの感覚は大なり小なり今の日本人も抱えているから、
翻訳本・解説本の出版が途絶えることなく続いているのだろう。
3冊のうち、私が繰り返し読みたいと思えるのが「茶の本」。
その原因をとくに深く考えたこともなかったのだけど、
今回気付かせてくれたのが、茶人・田中仙堂が解説した一冊。
茶の本は代表的日本人・武士道と根本的に違う
キリスト教的道徳の存在しない日本が文明国になれるのか?
という西洋諸国の疑問に対して、キリスト教的道徳に匹敵する
- 歴史上の人物(西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮)
- 武士道という道徳体系
が存在しているとと主張したのが内村と新渡戸の本。
「二人の答えが結果として、キリスト教を受け入れることが文明化であるという19世紀的な偏見を前提として受け入れてしまっていることに対して、天心は19世紀的偏見そのものに異議申し立てをすることで、西洋の物差しとは別の文明世界があることを示そうとしたのが「東洋の理想」であり、「茶の本」です。」P12
たしかに「茶の本」には西洋を堂々と批判する部分も見受けられ、
西洋文化にへつらうことなく日本を描いているところが魅力なのかも。
天心がアメリカで「茶の本」の構想を練っていたのは、
日露戦争後のポーツマスでの和平交渉が行われていた時期。
ロシア側は「キリスト教国・ロシア vs 異教国・日本」という対立軸で、
アメリカの世論を自国に有利に導こうとしていた。
そんな背景もあって天心は、茶道をキリスト教に同化させるのではなく、
哲学や思想をもち宗教に匹敵する世界観を持つのが茶道だと訴えたのだろう。
解説本の決定版
私自身、これまで「茶の本」の名文を編集して遊んできたけど、
実はよく分からない記述も多く、飛ばし読みをしていた。
でも今回この本を読むことで、より深い時代背景はもちろん、
西洋人へ伝わりやすくするための天心の工夫の跡も知ることができ、
あまりのおもしろさに一気に読んでしまった。
そして最終章から読めば分かりやすくなるというアイデアも素晴らしい。
岡倉天心「茶の本」を再読はぜひこの本で!
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