箸墓古墳が卑弥呼の墓である根拠は?/白石太一郎「古墳からみた倭国の形成と展開」

私が子どもの頃に習ったものとはだいぶ変わった日本の古代史。
奈良に旅立つ前に古墳についていろいろ調べているのだけど、

昔は佐賀の吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の地として有力だったが、
今は奈良の箸墓古墳卑弥呼の墓であることが確実視されているようだ。

どうしてそういう話になったのか? もっと詳しく知りたくて、
考古学から日本の古代国家・古代文化の形成過程を長年追求してきたという
白石太一郎 氏の本を手にとった。

たまたまだが白石氏の研究の総まとめ的な本だったようだ。

本書は、まさに「私の最新講義」であるとともに、2,3世紀から7世紀にわたる通史的なものとしては、事実上「私の最終講義」であろう。

解明が進んだ古墳の造営年代

昔と変わらず古墳は天皇陵とされるがゆえに調査が進まないことも多いようだが、
様々な手法により近年では造営年代が明らかになっているようだ。

箸墓古墳については埴輪の形式や炭素年代法により、
3世紀半ばの240~260年頃に造られたことが分かってきたという。

出現期の前方後円墳のなかでも最大の規模をもつ古墳は、奈良県の箸墓古墳である。もちろんこの古墳の埋葬施設は未調査で、その副葬品などは知られていない。ただこの古墳から採集されている特殊壷形埴輪、特殊器台形埴輪の型式からは、やはり出現期古墳のなかでも古い段階のものと考えられ、3世紀中葉すぎの造営を想定することができよう。

最近、この箸墓古墳の周濠状遺構(それは墳丘造成のための土取り場と考えられている)などから出土した同古墳造営期の布留0式土器の付着物を炭素年代法で分析したところ、その較正年代は240~260年に求められることが明らかになった。

そしてこれが魏志倭人伝に残された卑弥呼や邪馬台国の時期に一致する。

3世紀半ばすぎというのは、卑弥呼は亡くなっているが、その後継者である台与の時代である。3世紀前半から中葉の邪馬台国は、その直後に箸墓古墳など隔絶した規模の前方後円墳の営まれる近畿の大和にあったと考えるほかないというのが、私の結論である。

卑弥呼の没年は247年ないしそれ以降であることが知られている。倭人たちがこうした大規模な古墳を造営するのははじめてのことであり、その造営には10年に近い年月を要したことは疑いなかろうから、その想定される造営年代は、卑弥呼の墓の造営がその死後にはじめられたと考えれば、ほぼ一致していることになる。

また箸墓古墳を含む纒向遺跡では大規模な宮殿跡の発掘が進んでおり、
卑弥呼像にも合致する祭祀・祭政用の建物があるのだという。

魏志倭人伝の邪馬台国までの道のりの話は?

ここで本の内容を離れてふとした疑問。
魏志倭人伝では朝鮮から邪馬台国に至る道のりが細かく記されており、
それに従えば九州北部以外に考えられなかったのでは?

でもよくよく考えれば15世紀に描かれた地図ですら距離・方位がメチャクチャ。
※1402年に李氏朝鮮で造られた「混一疆理歴代国都之図」。右下に日本。

昔の記述から国の位置を特定するのはそもそも難しいのかもしれない。

箸墓古墳の造営意図

ふたたび本に戻って白石氏は「日本書紀」の伝承にも触れながら、
箸墓古墳が卑弥呼で墓であるという自説を補強していく。

箸墓古墳の造営年代が卑弥呼の没年にきわめて近いこと、それが神の山として信仰の中心であったと思われる三輪山のすぐ西北麓に位置すること、さらに箸墓が三輪山の神に仕えた偉大な巫女王の墓にほかならないとする崇神紀の伝承などを総合してえられるその被葬者像は、三世紀中葉すぎと想定されるこの巨大な前方後円墳の出現の歴史的背景を考えるうえにも、無視できないものと思われるのである。

最後に箸墓古墳がなぜ造営されたのか?という疑問にも迫っている。

三輪山の神とも一体であった卑弥呼の偉大な霊力が、新しいヤマト政権を守護してくれることを願って、この首長連合の共通のシンボルであり、連合構成員の紐帯としての意味をももつ「古墳」、おそらく最初の古墳としてこの箸墓古墳を造営したのではなかろうか。

しかし天皇陵だからなのか知らないが、古墳が発掘調査できないことが、
日本の古代史の解明の大きな障壁になっているように思えるのだが…。
これって天皇の生前退位より最優先すべき論点なのでは?