藤原定家の桜歌/拾遺愚草より10首

腰が壊れて動けなくなった時に(実は未だに完治せず…)、
藤原定家の自選和歌集「拾遺愚草」をタブレットで読んでいた。
このサイトでPDF版がダウンロードできる!

まもなく桜の時期がやってくるので、
目に止まった定家の桜の和歌を10首ほど選んでみた。

現在に伝わる定家はじめての一首

いきなり番外編で「拾遺愚草」には未収録の一首。
1178年、定家17歳の時に賀茂神社に奉納した和歌。

桜花 またたちならぶ 物ぞなき 
誰まがへけん 峰の白雲

「拾遺愚草」には1181年以降に詠んだ和歌が収録されているため、
これは漏れているが、桜の比類なき美しさを愛でた一首。
雲を桜の花と見立てる歌い方の批判も込められているのだろうか。

花月百首

1190年の秋、28歳の定家が花と月を題材に詠んだものから2首。

桜花 咲きにし日より 吉野山 
空もひとつに かほる白雲

この年の桜が咲き誇る満月の日に西行が亡くなっている。

西行が同時代の歌人への影響は非常に大きく、
桜の和歌を詠むなら西行の愛した吉野山、という認識もあったようだ。
鎌倉幕府三代将軍の源実朝は訪れたこともない吉野の桜を詠っているし、
定家も「花月百首」の1番目に吉野の桜を詠んでいる。

また西行以降、日本人の心の花となったとも言える桜。

山櫻 心の色を たれ見てむ 
いく世の花の そこに宿らば

読み継がれた歌い手の心が時代を超えてつながるような一首もあり、
西行を意識して詠んだのが「花月百首」なのかもしれない。

新古今和歌集へ自選した桜歌

新古今和歌集の撰者でもあった定家。
自らの桜歌を3首、新古今集に自選している。

白雲の 春は重ねて たつた山 
をぐらの峰に 花にほふらし

これは定家38歳の時の一首。
最初に紹介したように10代の頃は見立てを嫌っていた定家だが、
新古今集に選んだ自分の桜の和歌はこれだった。
若気の至りを打ち消したいがゆえに「拾遺愚草」から外したのかも。

桜色の 庭の春風 あともなし 
問はばぞ人の 雪とだに見む

散った桜の花が庭を桜を桜色に染める。
その光景がまるで雪が降ったように見えたという。

春をへて みゆきになるる 花の陰 
ふりゆく身をも あはれとや思ふ

自らが時代遅れになっていくことを嘆くのような歌い方だが、
1203年、定家41歳の時に詠んだ和歌と記録されている。
父俊成が90歳、定家自身は79歳まで生きた長寿の家系であることを考えると、
鎌倉幕府が誕生し、王朝文化の終焉が背景にある歌だろうか。

水郷春望

新古今集に採られたような有名歌を離れて、
引き続き目に止まった和歌を拾っていくと、

あじろ木に 桜こきまぜ ゆく春の 
いざよふ波を えやはとどむる

この歌には「水郷春望」という詞書きがついている。
網代木のあたりに浮かんでいる桜の花びらが、
春の終わりとともに消えゆく情景には懐かしさを感じる。

子どもの頃、都内の桜の名所のひとつ洗足池のそばに住んでいた。
池に打たれた杭のまわりに花びらが集まっていたのを思い出す。

百人一首のリメイク的な桜歌

定家が晩年はどんな桜を詠んでいたのか読み進めると、
「拾遺愚草」の下巻に3首続けて収録された歌にあれ?
※3首目が1224年62歳の時の歌と記述がある

わか身よに ふるともなしの ながめして 
いく春風に 花の散るらん

山桜 花のせきもる あふさかは 
ゆくもかへるも わかれかねつつ

たつた河 いはねのつつし かけ見えて 
猶水くくる 春のくれなゐ

これは定家が編さんした「百人一首」に収録される
小野小町、蝉丸、在原業平の和歌をリメイクしたものでは?

こうした過去の名歌をリメイクすることを「本歌取り」と呼ぶ。
当時は過去の和歌を並び替えただけの単なる模倣も横行していたようで、
本歌取りの名手とされた定家は「詠歌大概」の中でそのルールを説いている。

  1. 最近七、八十年に詠まれた和歌からは一句たりとも取ってはダメ。
  2. 五句のうち三句を取ったらアウト。二句プラス三、四文字が限度。
  3. 上句の五七、七五、下句の七七をそのまま使うのはダメ。
  4. 本歌の趣向の中心部を取り、本歌取りであることがわかるように。
  5. 本歌と主題を変える。(例;四季の歌を恋の歌に変える)

模倣と創造の間で揺れる現代。
本歌取りのルール1と5には現代へのヒントも隠されているように思える。

  • 最近の作品を模倣したところで創造には届かない。
  • 一見すると無関係の分野の作品を模倣すると創造に結びつく。

日本には哲学や思想を示した古典は数少ないが、
その代わりに和歌に様々な日本の方法が隠されている。
このあたりが和歌で遊ぶのがやめられない理由のひとつなのだ。