論理的思考で真理に近づくためには神の保証が必要?!/デカルト「方法序説」

論理的思考の原点とも言えるデカルト方法序説」。
かつてその真理に至る方法を要約してみたものの、

なんだか納得できない気持ち悪さがあった。

いまいちどデカルト「方法」を簡単に振り返ってみよう。
過去に積み上げられた知識や経験を捨てた上で、

  1. 即断と偏見を避け、明らかなもの以外は判断に含めないこと
  2. 難問をより多く、よりよく解くために問題を小さく分割すること
  3. 最も単純なものから最も複雑なものへ階段を昇るように進むこと
  4. 全体を見直して、何も見落としていないことを確信すること

という4つの規則に従い分析したはてに、明晰なものだけを残し、
それを積み上げていくことが、真理に近づく方法であると説いた。

4番目の「全体を見直して、何も見落としていないことを確信すること」に、
ラプラスの悪魔」とも呼ばれる人知を超えた知性が必要なのではないか?

われわれは、宇宙の現在の状態はそれに先立つ状態の結果であり、それ以後の状態の原因であると考えなければならない。ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば…(中略)…この知性にとって不確かなものはなに一つないであろうし、その目には未来も過去と同様に現存することであろう。
ピエール・シモン・ラプラス「確率の哲学的試論」

そんな私の直感は正しかったのかもしれない。
藤田一照、山下良道「アップデートする仏教の中に興味深い記述があった。

分析していったはてに、疑い得ないほど明噺なものが自分の目の前にいまある。でも明噺だから正しいとはすぐにはなりません。「明噺なもの」→「正しいもの」とする、矢印のジャンプがここにあるのですよ。且ち明噺なものを正しいものだと判断するのだけれど、そのジャンプを何がどう保証するのかという問題が出てきました。もしかしたら、明噺だと見えているだけで、真理でないかもしれないわけだし。という問題意識で、一般によく知られた「方法序説」や、主著である「省察録」というデカルトの著作群をフランス語で丁寧に読んでいくと、驚くようなことが書いてありました。実は何も保証がないんですよ。この判断にはある種のジャンプがあることはデカルト自身が認めています。そのうえで、それでもなお明噺なものが正しいと主張するのですが、それは別の保証があるから。なんだと思います? いきなり神様なんですよ。

神を根拠なく信じているかぎり、真理には到達できないから新たな方法を!
というのがデカルト「方法序説」の根本にあると思い込んでいたのだが…。

でもここが科学者であり哲学者でもあったデカルトの苦悩なのかもしれない。

科学者としてのデカルトは、宇宙の成り立ちや天体の運動についても、
それを構成する部分とその運動に還元して全体を説明しようとした。
そしてその部分に対する認識の確実さは考える私の心によって保証される。
だが世界の法則を心で受け止めるには重すぎて神頼みになってしまう。

論理的思考の正しさには神の保証が必要というのは奇妙な話だが、
学問化の細分化により科学と哲学が分離されただけで、
今なおその呪縛の中にいるように思えるのは私だけだろうか。。。