宮沢賢治 月の歌

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昨日8月27日は宮沢賢治(1896~1933)の生誕120周年だったそうだ。

それに合わせて私もかじった程度に賢治の作品を調べてみると、
月にまつわる童話や詩、短歌がたくさん残されていることを知った。

賢治は月を「月天子」と呼び、なかば信仰に近いものもあったようで、
「雨ニモマケズ」が書かれた手帳の中にもこんなことが書き残されている。

人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに

さりとて人はからだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに

さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに

しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人でない

単なる擬人ではないということは、やはり神ということ?

また童話「かしはばやしの夜」では、

  • 桃色の月が昇り、物語がはじまる
  • 月が水色の着物に着替える
  • 月が青く透き通ってあたりが湖の底のようになる
  • 月が青白い霧に隠される

という月の情景に合わせて物語が展開していく。
色彩豊かな月は鉱物学に通じていたという賢治ならではだろうか。

最後に短歌集から月にまつわるすべての歌をピックアップ。
怪しい月が多い。。。

桃青の 夏草の碑は みな月の 
青き反射の なかにねむりき

あはれ見よ 月光うつる 山の雪は 
若き貴人の 死蝋に似ずや

鉛などと かしてふくむ 月光の 
重きにひたる 墓山の木々

かたはなる 月ほの青く のぼるとき 
からすはさめて あやしみ啼けり

きら星の またゝきに降る 霜のかけら 
墓の石石は 月光に照り

われひとり ねむられずねむられず まよなかに 
窓にかゝるは 赭焦げの月

ゆがみひがみ 窓にかかれる 赭こげの月 
われひとりねむらず げにものがなし

地に倒れ かくもなげくを こころなく 
ひためぐり行くか しろがねの月

しろあとの 四っ角山に つめ草の 
はなは枯れたり しろがねの月

いざよひの 月はつめたき くだものの 
匂をはなち あらはれにけり

しづみたる 月の光は のこれども 
踊のむれの もはやかなしき

にげ帰る 鹿のまなこの 燐光と 
なかばは黒き 五日の月と

弦月の 露台にきたり かなしみを 
すべて去らんと ねがひたりしも

ことさらに 鉛をとかし ふくみたる 
月光のなかに またいのるなり

さわやかに 半月かゝる 薄明の 
秩父の峡の かへりみちかな

かくてまた 冬となるべき よるのそら 
漂ふ霧に ふれる月光

何もかも やめてしまへと 弦月の 
空にむかへば 落ちきたる霧

弦月の そつとはきたる 薄霧を 
むしやくしやしつゝ 過ぎ行きにけり

しろがねの 月はうつりぬ フィーマスの 
野のたまり水 荷馬車のわだち

黄葉落ちて 象牙細工の 白樺は 
まひるの月を いたゞけるかな

くろひのき 月光澱む 雲きれに 
うかがひよりて 何か企つ

うすらなく 月光瓦斯の なかにして 
ひのきは枝の 雪をはらへり

のべられし 昆布の中に 大なる 
釜らしきもの 月にひかれり

月光の すこし暗めば こゝろ急く 
硫黄のにほひ みちにこめたり

うす月に かゞやきいでし 踊り子の 
異形を見れば こゝろ泣かゆも

うす月に むらがり踊る 剣舞の 
異形のきらめき こゝろ乱れぬ

わかものの 青仮面の下に つくといき 
ふかみ行く夜を いでし弦月

きれぎれに 雨をともなひ 吹く風に 
うす月みちて 虫のなくなり

月弱く さだかならねど 縮れ雲 
ひたすら北に 飛びてあるらし

しろがねの 月にむかへば わがまなこ 
雲なきそらに 雲をうたがふ

そら高く しろがねの月 かゝれるを 
わが目かなしき 雲を見るかな

聞けよまた 月はかたりぬ やさしくも 
アンデルセンの 月はかたりぬ

みなそこの 黒き藻はみな 月光に 
あやしき腕を さしのぶるなり

あかつきの 琥珀ひかれば しらしらと 
アンデルセンの 月はしづみぬ

みがかれし 空はわびしく 濁るかな 
三日月幻師 あけがたとなり

三日月よ 幻師のころも ぬぎすてて 
さやかにかかる あかつきのそら

ありあけの 月はのこれど 松むらの 
そよぎ爽かに 日は出でんとす

月あかり まひるの中に 入り来るは 
馬酔木の花の さけるなりけり

あぜみ咲き まひるのなかの 月あかり 
これはあるべき ことにはあらねど

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