富と幸福・その3 足るを知る

この記事は約3分で読めます。

足るを知る」をテーマに、富と幸福の名言数珠つなぎPart.3。Part.1&Part.2
きっかけはジョン・C・ボーグルの著作「波瀾の時代の幸福論
原題は”Enough.True Measures of Money, Bussiness, and Life”

「いまの私たちにとっては、この社会が存在感と影響力を維持し、さらに拡大していくために十分な金、すなわち生産的な富があるかどうかではなく、品性、価値観、美徳が足りているかどうか-それこそが問題なのだ。」

この手の話は、今回の金融危機以後、たびたび耳にする。
今に始まった話ではない。
老子の「足ることを知る者は富めり」に始まり、古今東西に様々な名言がある。
18世紀を生きたベンジャミン・フランクリンはこんな悲しい言葉を残している。

豊かなのは誰か? 足るを知る者。
“Who is rich? He that is content.”
それは誰か? 誰もいない。
“Who is that? Nobody.”

ただ、発明家としても有名だったフランクリン自身は特許を取得しようとせず、
発明はお金儲けではなく人々の生活の質を高めるため、という信念を貫いた。

フランクリンと同時代のアダム・スミスは著書「国富論」で、
1人1人が自らの利益を追求することが、社会全体の経済的利益につながる、
という市場経済を推奨した経済学者として有名だが、「道徳感情論」では

健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何をつけ加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の増加はすべて余計なものだというべきだろう。もし彼が、それらの増加のために大いに気分が浮き立っているとすれば、それはつまらぬ軽はずみの結果であるに違いない。」

といった「国富論」のベースとなる人間像として、「足を知る」者を描いていた。
また、17世紀の中国明代末期に書かれたと言われる「菜根譚」には、

贅沢な者はいくら富んでも満足することはない。貧しくともつつましく暮らしながら余裕をもつ方がよほどいいではないか。有能な者はいくら一所懸命になって働いても人の恨みを買う。不器用でも気楽に日々をすごし自然のままに生きる方がましではないか。

「足を知る」ことの重要性を説きながら、しかし世の中そうは行かずモヤモヤ。
文明の発達していた西洋にかぎったことではなく、東洋でもこの苦悩は登場する。
そしてもちろん日本にも…。吉田兼好「徒然草」第38段には、

名利に使はれて、閑かなる暇なく、一生苦しむこそ、愚かなれ。・・・・・・まことの人は、智もなく、徳もなく、功もなく、名もなし。誰かを知り、誰かを伝へん。これ、徳を隠し、愚を守るにあらず。もとより賢愚・得失の境にをらざればなり。」

兼好は、名声や地位を求めることの愚かさ、心の平穏の重要性をといた。

そして今回、日本史の中から探せた、もっとも古い「足を知る」の名言は、
985年、比叡山のお坊さん源信が「往生要集」の中に記した、

足ることを知らば貧といへども富と名づくべし、財ありとも欲多ければこれを貧と名づく。

まとめると、一番大切なのは心静かに生きること、だろうか。

参考文献

コメント

  1. とよぴ~ より:

    「「足を知る」ことの重要性を説きながら、しかし世の中そうは行かずモヤモヤ。」
    清貧の思想でもそうでしたが2つの正しい答えがぶつかり合って脳内では矛盾なのか?って時があります
    自分自身では清貧を主張していても社会・経済は成長を望んでいるのならば自分は偽善なのかな?ってモヤモヤ
    そもそも数年前にシンプルなケータイがいいなんてブログで書いているのに最近アンドロイド携帯が欲しいなんて言っている自分は一貫性ないけれど(笑)

  2. まろ@管理人 より:

    私、メチャクチャ方向音痴なのでアンドロイド携帯がぜひ欲しいです(笑)
    清貧のモヤモヤは私も感じています。
    仕事を辞めて大学院に行くような金銭的な余裕があるからこそ、「清貧」なんぞと主張できるのではないか…。難しいですね。