飢饉対策に人身売買を容認した鎌倉幕府(御成敗式目)

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イスラム国の「奴隷制」復活宣言を受けて、

もちろん現代では、

「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。」(世界人権宣言・第4条)

だから問題視されるけど、

過去の日本ではこんな容認の仕方もあったという話。

承久の乱の後に鎌倉幕府の実権を握った北条氏が、

最初に直面した問題が寛喜の飢饉(1230~31年)。

日本の人口の3分の1が餓死!とも表現された大事件。

そんな社会的混乱の中で制定された御成敗式目(1232年)。

41条に「10年以上使役されない奴卑は自由の身」とあり、

これ単体で読むと何のことか分からないけど、

時流に合わせて1239年に追加された条文では、

寛喜三年(1231年)の餓死のころ、飢人として出来の輩は、養育の功労につきて、主人御計らいたるべきの由、定め置かれおわんぬ。およそ人倫売買の事、禁制ことに重し。しかれども飢饉の年ばかりは、免許せらるるか。

寛喜の飢饉の時に飢え死にしそうだった者を助けた主人は、

その者を奴隷としてそのまま自分の元においても構わない。

人身売買は本来認められないが、飢饉の年は例外とする。

という人身売買や奴隷制を認める内容となっている。

現代社会では、なんでも白黒はっきりさせたがるから、

グレーゾーンや闇の部分による救済法が存在しない。

最低賃金法や派遣法の規制やブラック企業叩きによって、

普通の生活から転落した時にしがみつく場が少ないことが、

急増しているという若者のホームレス化とも関係するかも。

餓死して死ぬくらいなら、奴隷に堕ちてでも生き延びる!

そんな社会情勢に柔軟に対応した北条氏の名裁きなのかな。

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