「待つ」とは信じ、祈ること/百人一首97「来ぬ人を…」

技術の進歩とともに、待ち時間の短い世の中になってきた。
だから人はしだいに待つことができなくなっていった。

  • 混んでいる急行電車にムリヤリ乗ろうとする
  • バス停で怖い顔をして立っている
  • エレベーターのボタンを連射する

このあたりまでは性格的な問題で済まされる範囲。
でも、携帯電話やスマホの普及よって現れた、

  • メールの返事が来ない。ちゃんと読んでくれたのか?
  • LINEが既読になっているのになぜ返事がない…

なんて焦りや怒り、悲しみは多くの人に共通する現代病。
待てない人同士の人間関係は、何かが欠けている気がする。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに
焼くやもしほの 身もこがれつつ

待ってもあなたは来てくれなかったけど、
いつも私はあなたを想い、恋いこがれています。
百人一首の選者、藤原定家が自選した一首。

電話もなく会えない人とのやりとりが手紙だけだった頃、
とくに恋の和歌を贈った相手の返事を待っていた時代は、
「待つ」ことは、相手を「信じる」ことだったといえる。

また日本では神がどこかに常駐する「主」ではなく、
たまに訪れる「客」だったことを考えれば、

「待つ」ことは、神に「祈る」ことでもあったといえる。
そういえば「待」には「寺」が含まれているし、
さらに字の作りから「時」にもつながってゆく。

待つことで、信じ、祈りの深みを持った時間の先に、
私たちが望んでやまない、幸せが待っているのかも。
生きることは、新たな可能性を待つことなのだから。